[打ち砕かれた青春]

「元寇」の出だしの歌詞は「四百余州をこぞる 十万余騎の敵 国難ここにあり・・・・」という勇ましいものである。「まだ遊びたい年頃の女の子達が親元を離れ,こうしてけなげにもひたむきに・・・と胸に込み上げてくる思いでした」と、多感な年齢であった久米さんは、この時のことが忘れられないひとこまという。

久米さんは募集のあった陸軍航空技術本部の依託学生に応募、昭和20年(1945年)4月に東京・立川市にあった同本部に入隊し、技術将校の士官候補生訓練を受ける。ここ立川には飛行場や航空工廠があり毎夜B-29による執拗な空襲にさらされ、たびたび防空壕に逃げ込んだ。「爆撃のたびに激しい振動で土砂が崩れ落ち、今夜が最後かと思うこともしばしばだった」と、恐怖を記している。

5月、東京・日野市にある研究所に配属されるが、そこで日本陸軍の技術レベルの低さを思い知らされる。日本は、開戦直後にフィリピンで米軍が残していった電波探知機(レーダー)を入手していたが、3年以上過ぎてもその性能は低く、また「ノクトビジョン(暗視管)」も、製造技術者が不足していて実戦には間に合ってない状態だった。これでは到底勝てる見込みがなかろうと、内心ではあきらめの境地だった」と当時の心境を書いている。

徳島大空襲での被災地帯(徳島県戦災復興都市計画事務所調べ) YAHOO「徳島大空襲」---とくしま20世紀・激動を超えて

[常三島キャンパス校舎の全焼]

1ヶ月あまり経った6月末に、どうした経緯か各学校の最高学年の生徒に動員解除が発令され、地元に帰ることになった。途切れ途切れの東海道線を乗り継いで、3日かかって自宅に帰りついた」と、久米さんは記している。帰宅した翌日の7月3日に久しぶりに徳島市内常三島町の学校に登校するが、それが最後の見納めとなった。その日の深夜から翌日にかけて徳島市はB-29の空襲を受ける。

グァム島を飛び立ったB-29のうち129機が徳島市に来襲し、市内の60%に当たる17,000世帯、70,000人が被災、死者約1,000名、重軽傷者約2,000名の大惨事だった。動員先での体験が幸いし孤軍奮闘の結果我が家は幸い焼失を免れることができた。しかし、校舎は全焼。授業は工業高校の校舎を借りて始められたが、ほぼ1ヶ月後に終戦。

8月14日には、警察官派出所や駅前に「明15日正午、重大発表がありラジオを聞け」との紙が張られたという。「玄関前にラジオを据えつけて、近隣の農家の人達と懸命に耳を傾けたが、全国同一周波数でビートが入り、蝋盤録音のため明瞭度は悪かった」ことを久米さんは覚えている。それでも「ポツダム宣言受諾、忍びがたきを忍び」という言葉から敗戦を察したという。

[終戦]

この放送は、天皇陛下が初めて国民に肉声で呼びかけられたことから「玉音放送」といわれるようになったが、放送の後、和田信賢アナウンサーの明快な解説があり戦争終結がはっきりした。「和田アナは、奇しくも昭和16年(1941年)12月8日に、太平洋戦争開戦のニュースを報じた人であり、名アナウンサーであった」と久米さんは解説している。

9月27日に繰上げ卒業式が行われて、久米さんは卒業証書を受け取り粗製濫造の「電気事業主任技術者」が誕生したものの、荒廃した当時の日本では就職の当てなどあるはずもなく、専らリュックを背負って農家から芋など買い漁り飢えをしのぐような生活が続いた。

昭和53年(1978年)12月1日に発行された「JARL四国だより」がある。JARL四国支部発足25周年の記念特集号であるが、久米さんは戦前にハムになれなかったむなしさを「ある戦後ハムの半生記」として寄稿している。この文章は「四国のハム達。稲毛さんとその歴史」にも引用したが、久米さんの悔しさの思いがにじみ出ている名文であるため、再掲出しておく。

「四国地方30年のあゆみ」と久米さんの原稿

[しぼんでしまったハムへの夢]

以下はその寄稿の前4分の1である。

今、私の手元に「短波実験局の設計と運用」という1冊の本があります。昭和13年9月15日、誠文堂新光社発行、逓信省工務局 高瀬芳郷著、定価2円とあります。この本こそ、戦前のハムにとって、唯一のバイブルというべきもので、国際法の解説から始まり、モールス符号の覚え方、キーの扱い方、QSOのやり方、局の設計方法、申請方法にいたるまで、実に詳しく説明しております。

当時は、現在のようなアマチュア局ではなく「私設無線電信電話実験局」の名のもとに、空中戦電力10W、運用許可時間は2時間区切りで、1日延べ11時間以内など、極めて限られた条件の下に許可されていました。当時、中学生であった私はこの本を通じて、この世の中にハムというすばらしいホビーの存在することを知り、学校の勉強を放り出してくり返しくり返し夢中になって読みふけりました。

そして、手作りの0-V-1のコイルを巻いたりほぐしたりして、ようやくハムバンドを見つけた時は、天にも昇る心地だったことを覚えています。今も記憶に残るのはJ2PU(現JA1AD)の齋藤OMの「本日は晴天なり」の試験電波でした。このように、いつか自分もライセンスをとってハムをやりたいと心に誓い、同級の島田君(JA5EN)とお互いに夢を膨らませておりました。しかし、戦争への足音が高まるにつれ、次第にハムどころでない世の中になり、昭和16年12月8日、開戦と同時に戦前のわが国のハムの火はついに消えてしまい、私の夢もしぼんでしまったわけです。