[SWR(短波受信)を始める]

昭和21年(1946年)4月、久米さんは四国配電(現四国電力)に採用される。「徳島支店でのサラリーマン生活が始まった。安月給ながらも一応生活のめどがたち戦災の復興が始まると、やはり気になるのはハム再開のこと」であった。早速、自作の受信機に手を加えてSWLを始めた久米さんは、耳を傾けて短波帯の情況を探った。

アマチュアバンドを聞くと、進駐軍の日本国内プリフィックスであるJ(後にJAさらにKA)や沖縄のKR6がバンドを席巻していた。久米さんは「焼け跡に黒焦げの醜態をさらした百貨店」の書店で、JARL(日本アマチュア無線連盟)が機関誌として発行した「CQ ham radio」昭和21年9月創刊号を見つける。

昭和21年9月に発行された「CQ ham radio」。JARLのマークが初めて公式に使われた

久米さんなど東京を遠く離れた人達は知らなかったが、戦後すぐに逓信省など関係方面に対してアマチュア無線の再開活動が始まっていた。戦前のハムが個人的に、あるいはJARLが組織的に推進していたのである。機関誌の発行もその一環であったが、久米さんは機関誌を見て、すぐにJARLの準員として加盟した。

JARLは、短波受信者に対して、SWLナンバーを発行した。やがて再開されるアマチュア無線の準備のひとつであもあり、久米さんのナンバーは「JAPAN9-5」であった。SWLカードを印刷し、珍しいカントリーの局には受信報告を送った。交信は出来なかったが、それなりに楽しかったという。

[先輩・庄野さんを知る]

久米さんが「CQ ham radio」の「CALLS HEARD」コーナーに受信情況を投稿すると、コーナー担当者の庄野久男(後にJA1AA)さんから手紙が届く。庄野さんは同じ徳島の出身であり、徳島中学の5年先輩であることを知り、その後何くれとなく久米さんの面倒を見てくれた。「ふとしたきっかけから始まったご縁であったが、私にとっては終生忘れ得ないご縁を感謝している」と綴っている。

庄野さんについては、先にも触れたとおり「関東のハム達。庄野さんとその歴史」があるが、アマチュア無線の再開に当たっての活動や、ハム志望者への支援について、多くの人達がその親切さと優しさの大きさに舌を巻く想いをもっている。「神様のような方」とも言われるが、庄野さんは敬虔なクリスチャンでもある。アマチュア無線再開のあらましについては、この庄野さんの連載で詳しく触れているため、ここでは省く。

再開活動のひとつとして、ドイツに見習えという戦術があった。同じ敗戦国であったドイツは、公然とアンカバー交信を行うことによって進駐軍に圧力をかけ、再開を勝ち取っていた。ドイツのハムからは同じようにやったらどうかという提案が寄せられた。「ドイツのハムから猛烈な励ましのメッセージがあったことは忘れられない思い出のひとつ」と、久米さんは書いている。

庄野さん、約2年前のレインボーDX会で

[待望のハムに]

昭和25年(1950年)に「電波3法」が制定され、それに基づきアマチュア無線の免許再開が近いことが伝わってきた。戦後の第1回アマチュア無線国家試験は、昭和26年6月に行われた。久米さんは翌年27年(1951年)2月に香川県の詫間電波高校(現詫間電波工業高等専門学校)で第1級アマチュア無線技士を受験し、一時試験の電信送受に合格。翌月の学科試験にも合格し、間もなく合格通知を手にする。

久米さんは「よほどうれしかったのか、その合格通知を神棚に祭ったことを覚えている」という。従事者免許を申請して取得すると、庄野さんから開局申請をするよう督励される。すぐに書き上げて提出を依頼、7月10日に受理された。しかし、久米さんは「戦後の混乱期から抜けきっていない情況ではハムの免許などは当分駄目であろう」とあきらめていた。

あきらめてはいたが、半分は期待しながら久米さんは四国配電の業務に没頭していた。当時は電力の供給力が極度に不足しており、頼りになるのは、吉野川から分水する高知県のダムによる水力発電のみ。久米さんが「ダムの貯水量、降雨の状態、水力発電所の出水状況に一喜一憂していた」時のことである。給電係の久米さんは、毎朝これらのデータを収集して上司に報告するとともに、関係報道機関の記者たちに発表することになっていた。

ある日、毎日顔を会わせている読売新聞の記者から「アマチュア無線の免許が下り、今朝のうちの他の地方版に四国・久米正雄とだけ載っているのですが、取材したくとも住所を調べる方法が思いつかず困っていましてね。何か良い知恵がないものでしょうか」と誰に話すともなくしゃべっている。