[手綱アンテナ] 

効率の良いクワッドアンテナであったが、久米さんが苦労したのはアンテナを回転させることであった。当時、徳島ではローテーター(ローター)などはなく、久米さんはいろいろと試したあげく妙案を思いつく。マストの下部を木枠で挟み、両端にロープを結び付け、ロープを引張ることでアンテナを回転させた。

360度「死角」をなくすように回転させるために、木枠を2組み作り十字状に配置して解決した。「この仕掛けを見た仲間からは"5AAの手綱アンテナ"と命名されました」と久米さんは懐かしそうに話す。そして「モーターに頼るのに比べて素早く回転できるのでまことに快適だった」という。

効率の良い指向性のアンテナであったものの「思えば人間は欲の深いもの」と久米さんは述懐する。「指向性のビームアンテナだと、今ごろ指向性アンテナではつかまらないサイドやバックで珍局のCQが聞こえているのでは?と疑心暗鬼になったことがあり、無指向性のアンテナも併用したいなどと考えたこともあった」という。

[全国にJARLクラブ局]

戦後すぐに再建されたJARLは、SWL(短波受信)活動を推進するとともに、各地に同好者のクラブを発足するよう勧めた。予想されるアマチュア無線再開準備のため、互いに無線通信の技術を学び、さらに、全国のクラブを組織化することにより、GHQや日本の行政当局つまりは逓信院に再開の圧力をかけるねらいもあったといわれている。

JARLは、10名以上の会員が集まったクラブを公認することになり、昭和22年(1947年)初めには福井県と大分県に「アマチュア無線研究会」「無線同好会」がJARLに登録された。もちろん、コールサインを持っている会員はひとりもいない時代である。久米さんも「徳島クラブ」の設立に動きだす。10名の会員を集めるために、久米さんはまず、JARLに手紙を送り、徳島県内の「CQ ham radio」定期購読者のリストの提供を受ける。

昭和29年4月に開かれた丸亀市の支部ミーティング

[JARL徳島クラブ] 

久米さんはその時のことを「昭和23年(1958年)ごろだったと思う。13名の方に案内を出したが、ほとんど返事をいただけなかった。高校生は進学、大学生は就職のために家を離れた、という返事が多くの家族の方から返ってきた」という。そこで、久米さんは、リストにあった高校の理科クラブを訪問したが、「アマチュア無線関係は今のところやってなくて得ることはなかった」という。

そのなかで、牟岐漁業無線局の市川博志局長が関心を示してくれ「その後何かと便宜を図ってくれた」という。このような経過を辿りながらも「徳島クラブ」は発足した。四国では、昭和23年(1958年)前半に高知県に「高知ラジオアマチュアクラブ」「高知ハムラジオクラブ」が発足し、さらに夏には「愛媛クラブ」秋には「香川クラブ」が誕生した。

「CQ ham radio」は、昭和22年以降しばらくは「クラブだより」の欄を設けて、新クラブの設立を伝えるとともに、各クラブの活動状況を知らせている。その後、JARLは独自に「JARL NEWS」発刊するようになったこともあってか、「徳島クラブ」の発足を「CQ ham radio」誌上では見つけられなかった。

ただし、昭和31年(1956年)10月の「JARL NEWS」には、登録番号73で「JARL徳島クラブ」が掲載され、会長に久米さん、会員数35名、うちアマチュア局24と記載されている。このころの久米さんは、勤務先の四国電力の仕事で多忙を極めていた。

「勤めていた徳島支店の社屋の竣工、本支店間のマイクロ回線の開通、自動交換機の新設工事が最盛期であり、いずれも急を要すため、深夜に及ぶ仕事に追いまくられていた。このため、クラブの実務は庶務担当の方にお願いしていた。そのため、JARLへの登録が遅くなったのだろう」とこの当時を思い出してくれた。

[JARL四国支部の発足] 

四国のハムは戦前も、また戦後もJARLの組織では関西支部に属していた。アマチュア局が少なかったことが理由であるが、昭和28年(1953年)4月にようやく四国支部として独立した。会員数が増加したことや、大阪にある関西支部自体も関西地区の管理だけで手一杯になってしまったからである。支部として独立するための条件はやはりJARL会員10名以上であった。

久米さんに次いで田中実さんがJA5ABとなった。その後、ぼつぼつとコールをもつ仲間が増えるのにともない、久米さんは大塚政量(JA5AF)さん、太田等(JA5AG)さん、田中さん、山下英人(JA5AI)さんらと関西支部からの独立について、たびたび策を巡らせた。大塚さん、太田さんはともに香川県の戦前のハムであった。加えて、戦後になっても香川県のハムの数が多く、「どうしても香川の皆さんにおんぶすることになった」という。

四国支部初代支部長となった大塚さん