[初代会長大塚政量さん] 

分離独立したJARL四国支部の初代支部長には大塚さんが就任した。結局、大塚さんは四国支部が四国地方本部に変わった後は、本部長となり昭和56年(1981年)までJARLの四国の代表を続けた。久米さんは四国で戦後最初のアマチュア局として、JARLの活動にも参画を望まれていた。しかし、久米さんは四国電力での勤務地や仕事の関係で、自由な時間をとることができなかった。

昭和30年の四国支部ミーティング

「もっぱら大塚さんに頼ることになってしまった」と、今でも気にしている。ただ、地元の徳島では、開局を目指す後進のための支援や、求められて電波管理局の局落成検査には立ち会うなどいろいろ協力したが、JARLの役員では四国選出の評議員として参画するにとどまった。

[第14回JARL通常総会] 

それでも、久米さんは昭和47年(1972年)に松山市「松山市民会館」で行われたJARLの通常総会では、石原陽二(JA5AV)さんとともに議長席に座った。あいにく、この年の総会は審議すべき案件が多く議事は紛糾したが、流会だけは食い止め、総会が終了したのは午後8時前であった。この時に決定したのが従来の地方支部を廃止し、地方本部に昇格させるとともに各都府県に支部を置くことであった。

また、家族会員制ができ、入会金、会費の値上げが決められ、3万円を前納すれば「永久会員」の資格が得られるようになった。さらに、総会の定数は従来の3分の1から5分の1に引き下げられるなど、大幅な改革のあった総会であった。なお、改選期であったこの総会で、JARL副会長に地元の四国地方本部長の大塚さんが選出された。

昭和47年に松山市で開かれた「JARL通常総会」

昭和28年5月、四国支部の最初の支部報 ガリ版刷りであった

[スパイでは?] 

久米さんが免許を取得したころは、まだ日本の政情は不安定であった。昭和25年(1950年)に勃発した「朝鮮戦争」は28年(1953年)に休戦となったが、ますます、東西のブロック間の政治紛争は熾烈になっていた。このため、当時の公安警察は思想調査に力を入れており、ソ連・東欧諸国のアマチュア無線局と交信が自由にできるハムの動向も監視されていた。

このころ話題となったのが「三橋事件」であったが、全国でも多くのハムが密かに思想調査を受け、嫌な思いをしている。久米さんもそのひとりであった。ある日、近所の人から「この頃、警察官があなたの身辺調査、とくに交友関係を聞いて回っていますよ」と知らされる。久米さんが出張している時をねらって公安調査局員が職場に様子を探りにきたりした。

ある日、久米さんが帰社した時に来合わせていた調査員と出くわした。久米さんは別室に調査員を連れ込み詰問したという。「予期していた通りソ連のハムとの交信をしており、それが親ソ・容共の疑いとなっていることと判明した」ことを知る。それにしても「あきれるほど何の知識もなく、JARLの組織は秘密結社程度にしか見ていなかった」と久米さんは憤慨する。

「上からの命令で動いているのでご苦労なこと。腹をたてても仕方がない、と思いアマチュア無線の概要をレクチャーした」という。身に覚えがなければほうっておいていい時代ではなかった。身辺調査されているといううわさが流れただけで当時は住みにくくなる時代でもあった。このため、JARLも全国各地からの訴えを聞き、公安調査局に善処を求めたりした。

[兄の敵討ち] 

余談ついでにもうひとつ余談を続ける。人は細かなことでも気になっていることはいくつになっても覚えている。この話しもそのひとつである。やはり、30年代の初めのころである。14MHzでDXに夢中になっていた夏のある日、コンディションが悪く、リグの前でなすことなく座りこんでいると「1匹の肉付きの良いカマキリが入りこんできた。かねてもくろんでいた誘電体損失の実験の好機」と久米さんは、そのカマキリを捕まえる。

捕まえたカマキリを糸で結わえて、ぶら下げたまま終段タンク回路のコイルの中に、そろそろと入れる。カマキリの身体は見る見るうちに真っ赤になり、昇天してしまった。「何かの雑誌で読んで気になっていた誘電体損失の効果をやっと確かめることができた」というが、もうひとつの理由が、小学校入学前後の記憶であった。

久米さんは5人兄弟の次男であり、小さい時はいつも5歳上のお兄さんの後をついて回っていた。時には邪魔者扱いされたりしながらも、離れられなかった。ある日、家の近くの石垣にカマキリを見つけ「採って欲しい」とお兄さんにせがんだ。ところが、お兄さんは足を滑らし3mの高さから転落。頭を打って血が噴出した。

久米さんは子供心に「自分の責任」と感じたらしく、すぐに親を呼びに行けなかった。這い上がってくるお兄さんと一緒に家に帰ったため、お父さんに烈火の如く叱られる。この怪我でお兄さんは終生頭に一銭銅貨大のハゲを戴くこととなった。それ以来、久米さんはそれが気になって「申し訳なく思っていた」という。このため、カマキリの「尊い実験の犠牲は、兄の敵討ち」と、兄弟愛をユーモアをもって書いている。