[VHFに挑戦] 

DXを楽しみながらも久米さんは、自作の楽しみが忘れられず、また、新しいバンドに挑戦したくなり、50MHz、144MHzの自作にとりかかる。当然、真空管のリグである。4エレ八木・宇田アンテナにつないで海外を呼ぶが、そういつも異常伝播が発生するはずもなく「CQ JA・・・・・」とやるがだめ。そこで「CQ ローカル・・・」と呼ぶと、とたんに稲葉正則(JA5ADC)さんから「待ってました」と声がかかるのが常だった。

稲葉さんは「ミネルバ電機」を経営していたが、残念なことに故人となられた。久米さんは稲葉さんとの懐かしい思い出をいくつか持っている。50MHzでしばしばラグチューしていたが、稲葉さんの3倍高調波が近くのタクシー無線の周波数に合致していたため、夜毎タクシー無線にぶつぶつ言う声が聞こえ、そのタクシー会社の女性社長は2人の交信を録音し、無線機の定期検査の時に監理局の検査官に訴えた。

検査官は久米さんの顔見知り。「久米さん、ちょっと来て聞いてくれ」と連絡があり、駆けつけてテープを聞くと「紛れもなく、私と交信中の彼の声であり、心当たりがあるので善処します、とそうそうに引き上げ、すぐに水晶発振子をすりガラスで研磨して解決。セパレート運用していたため、私のチャンネルは大丈夫でした」と当時を思い出して苦笑い。

昭和37年に50MHz、TR式トランシーバーの免許を取り鳴門公園で実験した

[モービル運用] 

稲葉さんとは50MHzについで144MHzをやろうと、再びリグとアンテナを自作するが、どうしてもつながらない。「これほど近い距離でありながらどうして届かないのだろう」と久米さんは悩む。見直しの結果、アンテナフィーダーの同軸接栓のハンダ付け不良が原因だった。「初歩的ミスにがっかりしました」と、当時を思い出す。

昭和40年代になると「ローカルでは50MHzを使ってのモービル遊びが始まった。乗り遅れては」と久米さんは車の免許取得に挑戦した。仕事帰りに自動車学校に日参。「何しろ自転車にしか乗ったことがなく、しかも40歳での挑戦である。」指導員からは「あなたの年なら車輪の数だけ試験を受けなければ・・・・・」といわれての受講であった。

[そんなコールあるのですか] 

ようやく免許を取得した久米さんは「ポンコツ屋」を回って、軽4輪のバンを見つけて「ヘソクリ」の預金をはたいて購入、50MHzのリグを積みこんでモービルに熱中した。「送信部は真空管。電源を切り忘れて車を離れたためにバッテリーをあげてしまうこともしばしばだった」という。やがて、リグは144MHz次いで430MHzに変わっていく。

久米さんはモービルに夢中になり、転勤で高松に移住した後、徳島の自宅との間にある国道11号の阿讃(阿波~讃岐)往復しながら波を出した。そんなある時、対岸の3エリア(関西地区)からコールがあり「JA5AAのラストレターがわかりません」との問い合わせ。[後はありません。2文字です]と答えると「そんなコールあるんですか」との返事。「ハイ、四国で一番最初の局ですわ」に[へエー、そんな人がまだ生きとったのですか]といわれた。「まだまだ頑張っていますよ」と別れた久米さんであるが「それからは若い人に声をかけるのがどうも気が引けるようになった」と悩んでしまった。

[半導体トランシーバー] 

昭和30年(1955年)ソニーが世界初のトランジスターラジオを発売する。昭和35年(1960年)ころから久米さんの職場でもトランジスター製の通信線搬送電話装置などが登場するようになる。「こんなちっぽけなものでこんなことが出来るのか」と、衝撃を受けた久米さんは半導体工学の本を引っ張り出して復習を始めた。仕事の関係から、NECの代理店を知りトランジスターを購入、基礎実験を始めた。

昭和36年(1961年)のことである。「品名は2SC38、1個380円」久米さんはこの時のことを良く覚えている。3個を購入して、トランジスターリグの自作に挑戦する。「水晶オーバートーン発振+逓倍+終段アンプとし、2SC38のコレクター変調。周波数は6m、出力は約200mw。受信は超再生だった」という。

自作は成功。「周辺の仲間の間ではプリント基板作りも始まるなど、トランシーバー作りが大流行した。仲間は思い思いの自作機をぶら下げて、とにかく1mでも高い所に、とよく山に登り飛び比べをやった」と久米さんは当時を語る。自作機を弁当箱大のアルミケースに詰め込み、長いホイップアンテナを取り付けた。そして「ケースの横っ腹をJA5AAの文字に繰り抜き、裏から防虫網を張り、放熱窓としてしゃれた」という。

50MHzトランシーバーは「JA5AAの蛍かご」と呼ばれた

[JA5AAの蛍かご] 

完成した自作機を松山の電波監理局に持ち込み検査を申請した。その時のありさまを久米さんは「セットを右肩に掛け左手にマイクを持ち、右手に持った扇子でケースをあおぎ、ハイ、このようにそよそよと風を送り込むのですわ、と実演した」と記述している。