[四国電力勤務] 

久米さんのハム生活について触れてきたが、就職した四国電力での生活はどうだったのだろう。久米さんが勤務を始めた翌22年(1947年)に「過度経済力集中排除法」が制定され、それまでの「日本発送電」は、全国9ブロック別の電力会社に分割された。戦前、昭和13年(1938年)に、戦争遂行を目的に「国家総動員法」が制定されて以降、わが国は「軍需会社法」「戦力増強企業整備要綱」「主要産業団体令」など次々と経済統制法を発令した。

要は、産業・経済を国家が完全に統括する仕組みを作り、軍需産業拡大に向けての効率的な産業構造作りがねらいであり、全国の電力会社も「電力管理法」により統合されて国家管理になっていた。昭和25年(1950年)には、この排除法が施行されて、翌26年(1951年)に9電力会社が一斉に発足した。四国電力は高松市に本店を置き、各県に支店を設置してのスタートとなった。

久米さんの勤務は徳島支店の給電係。支店管内の電力系統の運転制御指令というべきもので、指令はすべて電話による口答によって行われていた。「貧弱な有線電話施設しかなく、発電出力の調整から系統電圧の確保に始まり、送電線路のスイッチの開閉など人命に関わる指令を確実に伝えるにはまことに心細い状態であった」と久米さんは当時の不安を語る。

久米さんの四国電力入社時の辞令

[通信回線の整備] 

久米さんは「給電指令所」での交代勤務となり、夜勤の翌日は休みとなるが「もちろん、昼寝などできるものかとDX漁り。おかげで交信カントリーを増やすことができた」と、交代勤務のありがたさを記している。一方、四国電力の徳島支店管内事業所間の保安通信は、昭和26年(1951年)ごろから徐々に整備改善され始めた。

「電波法」の施行にともない、電力会社も自由に通信回線を敷設できるようになり、まず電力線搬送が「高周波利用設備」として認可された。電力送電線に100~450KHzの電波を重畳、単通話路のものから6チャンネルまでのものが使われた。「標準的な設備はSSB電話3チャンネル、信号情報用1チャンネルで構成し、給電指令所と発変電所相互間に使用して通信連絡は大幅に改善された」という。

本店と各支店間の通信は通信線搬送で行われおり、より信頼性の高い通信網への改善が望まれていた。このため、昭和30年(1955年)には本店と愛媛支店間のマイクロ波による多重固定無線回線が開通、翌年には徳島支店社屋の改築に会わせて、本店、徳島支店間にもマイクロ回線が新設され、自動電話交換機の設置工事も始まった。久米さんは無線通信技術が認められ「通信係」に異動、その後の多忙な生活がスタートした。

徳島支店副長時代の久米さん

[本支店間多重無線回路] 

マイクロ波による通信幹線の構築は四国では始めてである。四国は山国である。各支店とつながるルート選定が始まり、香川、徳島、愛媛3県境にある雲辺寺山が候補になった。雲辺寺山の頂上には四国88カ所第66番雲辺寺があるため、アクセス道路もあり各支店向けにもルートの確保が可能なポイント。鏡を使って太陽光を反射させるミラーテストが行われた結果、徳島間の場合は眉山の中腹部分が支障になるため、4m角の反射板2枚を設置しての回線が構築された。

使用周波数は7GHz帯。アンテナは4mのパラボラ、矩形導波管で無線機につなぐのであるが「微妙な工作が必要で、メーカー技術者の巧みなテクニックに見とれたものである」と、久米さんは振りかえっている。送信用発振管はピーク出力100wのマグネトロン、受信用局発はクライストロン。

PPM-AM方式11チャンネルで各チャンネルのパルスのポジションが、変調に従って動くのをモニターディスプレイで監視しながら、位相のずれを補正するようになっていて「なかなかおもしろい装置であった」と久米さんは記憶している。ただし「マグネトロンや端局装置に使用していたサブミニチュア管の寿命が短かった」ことも憶えている。これらの計画・工事は本店の担当であり、久米さんら支店は施工時の応援を行った。始めて触れる通信システムに久米さんは多忙ながらも「楽しい仕事だった」という。

雲辺寺山上のマイクロ回線用バラボラアンテナ

[通信所長として保守を担当] 

マイクロ回線の構築が終わると、久米さんは通信網の保守を担当する「通信所長」に昇格する。このころは真空管から半導体への転換のほか、他の回路部品、機構部品の技術発展、新通信回路の開発などめまぐるしく、導入した機器の構造から性能、動作などが様変わりした時代であった。

このため「保守員も次々と取扱説明書を読みこなさなければならず、対応は大変であった」という。なかでも、始まったばかりの固体化(半導体使用の回路)にともなうトラブルが多かった。しかし、中央から離れた四国では、機器の故障に対してのメーカーによる即対応は期待できず、久米さん等は「自力で復旧させるための技能を身に付ける必要があり、所員全員で知恵を出し合った」という。