[本社へ転勤] 

昭和42年(1967年)4月、久米さんは本店通信課に転勤となる。定期人事異動であり、全社通信施設の設計・施工・保守管理全般の業務を補佐・担当する重要な立場となった。入社以来20年間の徳島での生活に別れを告げることになったが、同時にその後の20年間は仕事中心の生活となった。立場上でも、年齢的にもそういう時期になっていた。

ハム活動は制約を受け「DXハンティングはあきらめ、V、U帯でローカル局との交流など細々ながら続けてきた。今思うと生涯JARL会員を維持し通したことは良かった」と振りかえる。一方、高度成長にともない電力需要の増加に対応するため、電力系統はますます肥大化し、従来のような人手による系統運用は不可能となり、情報の収集・判断・処理・指令はすべて電子計算機により自動化されることになった。

その情報伝送には高い信頼度を要求された。また、送電線に異常が発生した場合、直ちにその送電線を系統から切り離し系統全体を保護することが緊急の課題となった。このため基幹系統の電気所相互間にはマイクロ波による系統保護継電器の情報伝送がどうしても必要となり、マイクロ回線の建設に必死に取り組まざるをえなくなった。

四国電力徳島支店の鉄塔の新設工事

[マイクロ波多重無線構築] 

昭和52年(1977年)7月の愛媛県伊方原子力発電所1号機完成、5年後の2号機増設を前にしたマイクロ回線の建設は「さまざまな障害があり、運用開始が間に合うかどうか薄氷を踏む心地だった」と責任者の1人となっていた久米さんは、当時を語っている。マイクロ回線網はルートの選定の実地検分、測量が終わり決定すると、候補地の用地確保の段階になる。

用地が確保された後は中継所や板射版の設置工事に移るが、機材運搬の道路はほとんどなくヘリコプターによる運搬を行うことが多かった。「静かな山間の僻地に突然ヘリの音が響きわたるのだから。、住民はもとより鶏舎のにわとり達も騒ぎ立て、卵を生まなくなったなどの苦情もあった」という。

マイクロ回線は電力会社のほか、都道府県の警察、NTT、鉄道などが積極的に回線網を構築した。昭和30年(1955年)ごろから構築が始まったが、多くの回線が錯綜するため、周波数の割り当ては難しかった。当時は回線の認可は郵政省の電波監理局が担当しており、久米さんは申請から認可になるまでの間、調整作業のたびに東海道を往復した。「ずいぶんかってな無理もいったが、ご協力をいただいた」という。

激務の合間にも「黒4ダム」の見学にも出かけた

[送配電線保守用設備] 

電力会社は、供給区域内であれば山の中であろうと離島であろうと、およそ人の住むところには電気を送ることが義務付けられている。その送配電線の保守には戦前から、戦後初期は「携帯電話」が使われた。送電線路に沿って保安用電話線、配電線の下には添架電話線が張られており、この電話線を利用するには電柱に登り、手回し発電機を電話線と接続し、発電機を回して信号を送り相手を呼んで話をした。まさに「携帯有線電話」であった。

いずれの電話線も送配電線からの誘導障害を受けて「雑音が多く、聞きづらかったがこれに頼るしかなかった」と、久米さんはかすかな記憶を思い出している。その後、送電線保守用無線には中短波帯のAM(当初はBSB、後SSB)の免許を得て活用した。しかし、夜間は保守圏内はスキップして、他電力に混信を与えるなど不便なため、40年代には150MHzのFMに移った。

これに対して、配電線保守用無線には当初から150MHzのFMを使用していたため、保守面は画期的な進歩となった。その後は、配電線路の増強にともない通信も輻輳したため、400MHz帯に移った。久米さんは、このような通信網の拡充のなかで、新しい通信の技術に次々と出会い、アマチュア無線に時間が避けない寂しさを紛らわしていた。

[送電線保守用フォールト・ロケーター] 

電力需要の増大にともない大電力輸送が進み、基幹送電線の電圧は50万Vに昇圧され、奥深い山々に施設されることとなり、ひとたび線路故障が起きると事故点の発見と復旧は困難を極める状態となった。そこで、一刻も早く故障点を見つけ出す仕組みが必要とされるようになった。考えられたのが「C型」と呼ばれるようになった送電線故障点評定装置(フォールト・ロケーター)の開発であった。

これは、パルスの伝達時間から距離を測定するものである。その後、この装置については関係メーカーと各電力会社との協力により「F型」「P型」などの方式が開発され、高い信頼性がえられるようになった。「これにより、迅速な事故対策が図れるようになった」と久米さんはいう。

因島大橋の電気工事を受注。その視察に訪れた

[四電エンジニアリングの創立] 

四国電力の電力設備の規模が急速に大きくなり、従来の技術部門の社員による「直営」方式では技術処理に対応するのが難しく、また、非効率になっていた。そこで、考えられたのが「四電エンジニアリング株式会社」を設立、外部委託する構想であった。同社は昭和45年(1970年)に設立され、管理部門のほか原子力部、プラント建設部、海外技術部、土木部、電気部、技術開発部が設けられた。翌46年(1971年)には電気部の中に通信担当を置くことになった。通信設備の建設・保守業務量が膨大となってきたためであり、親会社・四国電力の定年退職者を採用、組織ができあがった。