昭和50年(1975年)久米さんは通信課長、次いで52年(1977年)系統運用部次長(通信担当)に昇格。通信部門全体を統括することになったが、「日常業務も管理面の仕事に追われ、直接モノと付き合う機会がなくなり、内心寂しい思いが高じていた」と、現場と離れた物足りなさを感ずるようになっていた。

[四Eへの出向] 

そのころ、久米さんは「通信部門の多様化にともなう業務をこなすためには、四E(四電エンジニアリング)の通信部門を強化する必要がある」と分析、上司に進言し自らその任に当たることを申しでた。昭和55年(1980年)4月、定年を2年残しての出向だった。昭和57年(1982年)四Eに「電子技術部」が発足し、久米さんは担当部長に就任する。

そこで直面したのが「電子技術部」の採算性。四国電力の通信設備の建設・保守業務の増加に対応するために社員の増員を図ったが、その業務量には波がありピーク時に必要な人員が、暇な時には余剰となってしまう。「仕事量の平準化を図る必要がある。地域の公共事業、一般企業の仕事を受注すべきだ」と久米さんは判断し、弱電関係のメーカーにも協力を求めた。

北海道電力との会議で千歳に出かけた久米さん

[事業の全国展開] 

日本経済は1次、2次のオイルショックから立ち直り、やがて「バブル経済時代」を迎えるころであり、電波防災行政無線の建設や障害対策工事など四国電力グループ外の仕事も多かった。「現場工事管理などメーカー各社の比較的手薄な分野を補完する仕事をさせていただいた」と久米さんはいう。事業のエリアは四国地域外にも広がり、北は北海道から全国各地に広がっていった。

当然のことではあるが、四国の企業が他の都道府県で営業活動を行うため、いろいろ面倒な問題もあった。現場下請け企業の発掘、契約などそれぞれの地元で協力をえる必要がある。「電力会社在職時代も各電力会社、各メーカーにお世話になったが、発注者の立場から仕事をいただく立場に変わると改めて人の情けを肌で感じたものである」と、人とのつながりの大切さを強調している。

[退職、そして知識を活かす] 

昭和60年(1985年)久米さんは「四E」の取締役に就任。平成元年(1989年)までの2期4年間役員を務める。徳島を家族とともに離れて20年。徳島には高齢の両親を残していた。久米さんにとって、いつも気がかりになっていたことである。退任の最大の理由がそれであった。この年の6月末に常勤役員を外れ、徳島に引き上げた。

それでも、社会は久米さんの知識を必要としていた。久米さんの友人で高校の教頭から「電気科の教師のピンチヒッターとして講師をやって欲しい」との電話を受ける。「四E」の仕事は時々会議に顔を出す程度であり、時間的な余裕はあった。「短期間なら」と講師を引きうけ、半年間「孫のような子供達を相手に勉強する羽目になった」という。

教壇に立つことになった久米さんは「知識の整理も必要。体験したことのない教育の現場を見て、ほどほどに刺激もあり、頭の活性化に多少は役立ったと思う」と回顧するが、同時に「もっとも教わった生徒達はえらい迷惑だったと思うが・・・・」とも。

[パソコンとの出会い] 

また、住まいの近くの企業から声がかかり「社内の管理ソフト」作りの仕事を3年間続けたりした。実は久米さんのパソコンとの付き合いは長い。「四E」に出向した昭和55年ころ、マイクロプロセッサーの活用が盛んとなり、技術雑誌には小規模の「マイコン」の組立て方などが掲載され始めた。

そこで、久米さんは電子技術部門の社員に勉強してもらおうと、発売されたばかりのディスプレイ一体型のマイコンを購入した。当時はクロックも遅くメモリーも少なく、データはカセットテープに記録するものであった。「若い部下に意欲を持たせるのには自分も取扱ぐらいはできなければ」と自らも買い求めた。

そのパソコンをアマチュア無線の交信記録に使おうとデータを入力し、ドットプリンターでコピーをとった。また「簡単なゲーム作りでプログラミングの真似事をして楽しむこともできた。ベーシックとアセンブラで作った機械語を組み合せたものであった」と、パソコンとの出会いを記している。

その後も久米さんはパソコンとのつながりを続け、Windowsの出現とともに「いろいろなアプリケーションプログラムが利用できるようになり、グラフィカルな画像処理機能にも驚かされ、パソコン遊びが病みつきとなった」という。近所の企業からのソフトづくりの依頼はその知識が認められたものといえる。

パソコンはソフトを自作するほどの通になった

[パケット通信] 

久米さんは「徳島に戻ってからはハム三昧の生活を」と楽しみにしていた。ところが実際には、移転そうそうに父親が寝たきりとなりその年の7月に他界。仏事や転居の後始末に追われ「なかなか落ち着いてハムを楽しむ余裕もない」状態が続いた。それでも、香川から引き上げる時に購入したパソコンに、TNC(ターミナル・ノード・コントローラー)をつなぎ、1.2GHzのパケット通信でローカル局と「落書きごっこを楽しんだり」した。