久米さんはパソコンに“はまり込んだ”。Windows95、98、Meを使いこなし「カーネル32のXPの出現と同時に飛びつく始末」と自ら“あきれている”。そのパソコンは久米さんのハム生活にも影響を与えている。「パケット通信」が、eメールに取って代わられた後は、ログ(交信記録)をエクセルでつくっている。

[ハム生活の再開] 

平成4年(1992年)には、「四E」の非常勤役員の任期も終わり退任。近所の企業でのソフトづくりも「これ以上勤めていては遊ぶ時間がなくなりそうな思いが強くなり」平成7年(1995年)6月に終わりにした。久米さんはちょうど満70歳となっていた。久米さんに余裕ができたことを知った全国あちこちのハムから「ぜひQSOを」と、電話での催促が増え始めた。

久米さんは、長い間遊んでいたタワーに7MHzの2エレと、14,21,28の3バンドの3エレのアンテナを揚げた。平成8年(1996年)6月、7.0775MHzで、全国の「2文字コール」のOM達がネットQSOをやっている、との話しを聞きつけた久米さんは、ご無沙汰していたOMに懐かしさのあまりブレークインしたところ大騒ぎとなった。

その時の当番コントローラーの故本田 坦(JA3CE)さんにつかまり「早速、全国をたらい回し。まさに、ミイラ捕りがミイラになったありさま。しまったと思ったが後の祭り」と書いている。それから3年間はネットに参加する多くの局と毎日のように交信した。開局当時のQSO以来の方はまだしも、開局後始めての局もあり「恐縮するばかり」だった久米さんは1000局を上回る2文字局を初め、数多くの局と交信できたという。

平成14年8月、庄野さん(右)と久しぶりに大阪で会った

[2文字グランドミーティング] 

一挙に交信が増えたため、QSLカードの発行が大わらわとなりしばらく忙しい状態が続いた。この年、久米さんは四国エリアの「2文字局」の交歓を図る目的で「グランドミーティング」を提案し、各局の賛同を得て実行に移す。最初は香川県の観音寺で開催、その後はJARL徳島クラブ会長の上原卓郎(JA5LD)さんの協力を得て、池田、道後、今治、高知、坂出、土柱と毎年開催する行事に育っている。

そのころローカルのTDXG(徳島DXグループ)の会長、大岸 昭(JA5IP)さんからSSTV(静止画像通信)の誘いを受け、また、清水裕次(JH5OTE)さんからはSSTVのソフトを紹介してもらった久米さんは「DXのSSTV局のQSLを見せつけられて、SSTVを再認識させられた」という。

道後にて開かれた、四国2文字ミーティングで挨拶する久米さん

四国2文字ミーティングでの記念撮影

[SSTV再開] 

SSTVは、画像情報を音声信号に変えて送受信するものであるが、以前はハードによる方法であったため、費用もかかっていた。久米さんもかつて「ちょっと試用しただけで頓挫してしまった」ことがある。最近はデジカメの写真をパソコンとソフトによって簡単に送受信できるようになった。

加えて、他エリアの数局から「アワードのために徳島のSSTV局を探し求めている」との声が届き、久米さんは「責任を感じて再開することにした。早速、法的な手続きも終えてローカル局との交信を手始めに、しばらくは楽しむことができた」と当時を語る。

しかし、久米さんの低い送信出力と、完備したアンテナでないためにS/Nを稼ぐのは難しく、さらに「比較的長い時間チャンネルを独占するのは、狭い7MHz帯ではやはり他局に迷惑をかけることになるなどのことから、熱中するほどの興味もわかなかった」という。

アマチュア無線にとって、パソコンの普及が簡易なSSTV送受信環境を作り出したが、同時に、パソコンの普及はインターネットでカラー画像を短時間で伝送できる仕組みを作り上げてしまい、SSTVの存在価値を薄れさせるという皮肉な結果を生み出している。

[アワード] 

久米さんは約40年間を四国電力とその子会社での生活に精魂を傾け、さらに退職後の7年間はローカル企業の手伝いなどに日を送った。このため、どっぷりとアマチュア無線三昧に浸る余裕はなかったし、がむしゃらにアワードに挑戦したわけでもなかった。それでも開局後のしばらくはDXに挑戦し、また、庄野さんからは「少なくともDXCCだけは達成しておきなさい」と、激励されていた。

久米さんが受け取ったDXCCのアワード

このため、アワードは昭和30年代前半に手に入れている。WAC(世界6大陸との交信)は昭和30年(1955年)5月、エンティテイ100以上達成のDXCCは昭和33年(1958年)2月であった。DXCCを目指しているころの久米さんはまさに「ハム狂」であった。「あのころはQSLカードに悩まされた毎日だった」と書いている。

「当然なことながらどれもこれもニューカントリーだったが、太平洋戦争のしこりが残っており対日感情の良くない国の中には呼んでも応答しない局があったり、QSLカードにしても戦後の混乱で転送できるビューロー(事務所)が整備されていないところもあった」という。このため、カードの返送率は低く、久米さんはやむなくIRC(インターナショナル・リプレイ・クーポン=国際返信切手券)で送ったりした。