[夢にまでカード] 

返送率が低いため、QSLカードの返送を督励するための経費は「馬鹿にならない出費だったと記憶している」という。しかし、毎日郵便箱を覗くのが何よりも楽しみになっていった。ついに「夢の中でおニューのQSLカードを受け取り、目が覚めてがっかりしたこともあった」という重症にまでなる。「QSLカードにはそれほど夢中にさせる魅力が潜んでいると思った」のもこのころである。

交換を約束した場合でも返送率は意外に悪く、権威のあるアワードだけはと頑張った末、「WACとDXCCのアワードをシャックに飾ることができた時は、やれやれと重荷を下ろしたものである」とほっとしている。その後、久米さんはDX、ローカル合わせていくつかのアワードを取得するが、6大陸の女性ハムとの交信であるYL WACには苦労することになる。

[YL WACの苦労] 

最初はアフリカ当たりが苦労するだろう、と久米さんは考えていたが「案に相違してヨーロッパが難しかった」という。「CQ YL IN EU」とキーを叩いても呼んでくるのはOM局ばかり。久米さんは「あまり強くないシグナルとか、どことなくなよなよした感じのいかにもYL局らしいシグナルを探してはコールするものの、やはりOM局である」と涙ぐましい努力を重ねる。

ついに、思い余った久米さんは庄野さんに「年齢はかまいませんから1人お世話願いませんか」とお願いしたりしたこともあった。やがて、HB9YLとの交信ができ、事情を聞いた彼女は「エアメールでカードを送ってくれた」という。ところが、それがきっかけとなって「その後、続々とヨーロッパのYLとQSOできるようになった。皮肉なものです」と笑う。

苦労して達成したYL-WAC

[再度の転居] 

平成12年(2000年)1月、久米さんは介護をしていたお母さんを98歳で見送り、奥さんと2人の生活が始まった。しばらくして、香川に住む子供達から「香川に出てきて一緒にという話があり、移転を決めた」という。高松市から琴平電鉄で約30分の現在の場所に二世帯住宅を建て、平成15年(2003年)2月に転居し、長男、お孫さんを含めて6人の賑やかな生活を楽しんでいる。

アマチュア無線は庭に3角タワーを建て、HF、UHFのビームアンテナを取り付け、14、18、21、28、430MHzで「細々ながら声を出している現状である」という。これまで触れてこなかったが、久米さんは実は多趣味である。老後の憂いがなくなったせいか、その趣味に浸っておりますます活動的である。パソコンはソフトづくりができるほどの腕前であるが、そのほか山歩き、カメラ、クラシック音楽と多才。

[山歩き] 

山について久米さんは「幼いころ山懐に抱かれて育ったせいか、山に取り巻かれた自然のたたずまいには根強い愛着がある」という。時間に余裕のなかった久米さんは「手軽に登れる山歩きを貪った」という。アマチュア無線を楽しめるようになったのと同様、山歩きができるようになったのは、香川から徳島に引き上げ、時間に余裕ができてからであった。

その後は「四国の道」に指定された徳島県内の山野を無作為に歩いたりした。「四国の道」は、四国88ケ所の札所、由緒ある神社仏閣を組み合わせて、各県の観光関係課で指定しているもので、徳島から高知、愛媛を回って香川に至るコースのことである。久米さんは、この道を歩き「ところどころで弘法大師の偉業を偲ぶとともに四国の自然を改めて認識し、皆さん方にもお勧めしている」という。

平成8年(1996年)と翌年の夏には上高地など信州の高原に出掛けた。木曾駒ヶ岳にも登ったが、より高い山に登りたい欲求が高まり、一方では徐々に落ちる体力の不安との板ばさみとなっていった。平成12年(2000年)には「20世紀の最後の年である今年こそ長年の願望を果たそう」と久米さんは決意する。

[乗鞍岳登山] 

久米さんは立山か乗鞍岳を候補にして、案内書を見て決めたのが乗鞍岳。毛利 元(JA9VJ)さんより「モービルで先導してやるとのお話もいただいたが、車に“枯葉マーク”を貼っての山岳暴走は身のためにならない」と、交通機関に頼ることにした。7月13日、飛騨高山を経て平湯温泉に泊まり、標高2700mの畳平までバスで約1時間。歩いて登るのは300mほどだった。「あまりの便利さに拍子抜けした」とがっかり。

それでも「梅雨前線の影響の濃いガスと強い北風のため2時間ほどかかった」という。道連れとなったご夫婦も定年でのリタイヤ組み。他の登山者もせいぜい60歳を過ぎたばかりの人達。私の年を聞くと驚きを隠さず「お次は立山、最後は富士山ですなあとそそのかされた」と久米さんは内心は喜んでいる様子。

長年の願いでもあった乗鞍岳に登山。山頂で

中山道も歩いた。馬籠で

[音楽] 

戦後、アマチュア無線再開の見通しがつかない頃については先に触れた。久米さんはその時、やむなく無線機の製作をやめて、ハイファイアンプづくりに熱中した。LPレコードを楽しむためであったが、レコードが高価であり大して集めることができなかった。音楽が好きになったのは、戦後に欧米の映画が大量に入り込み、洋画専門の映画館ができ古い名画が封切られるたびに久米さんは足を運び、そこで素晴らしい音楽を知ってからである。

今では想像できないが「当時は映画館ではGI(米軍兵士)と一緒に映画を楽しんだ」という。今は「BSテレビのBモードではNHK交響楽団のライブ放送が少なくなった」と、詳しいのはいかにもクラシック音楽通の久米さんらしい。現在は「FM放送で前期から後期のロマン派の曲を楽しんでいる」いう。