[長いカメラ歴] 

久米さんがカメラに触れたのは中学2年生のころ。小さな暗箱の前に小さなレンズがあり、黒い紙袋に入っている感光フィルムを箱の後ろにあるスリットに差し込む。シャッターを切る時には紙袋を抜き取って撮影。「原始的なものでもそこそこ写った。現像液は赤く染めてあるため明るい所でも現像ができた」と、少年のころの思い出を記している。

その後はお父さんの職場のカメラを借りたりしていたが、お父さんが仕事の関係で写真を取ることが多くなり、そのアシスタントの役割が回ってきて「本格的な写真の仕上げ処理ができるようになるきっかけとなった」という。その当時は「国産には信頼できるカメラがなく、カメラ雑誌で紹介されている作品はライカなどのドイツ製カメラで撮影したものばかりだった」と記憶している。

久米少年がお父さんから借りて使用したのはドイツ製のブロニ―全判の蛇腹式、レンズはツアイスで「さすがによく撮れた」という。フィルム現像は久米少年の仕事であり、急ごしらえの暗室でロールフィルムの現像を手掛けた。薬品の調合、液温、現像時間のカウントなど工夫を重ねた。その後、引き伸ばし機の操作も引き受けることになり、印画紙の選定など一通りの写真処理の技術を「楽しく学ぶことができた」という。

久米さんの自宅にそびえるアンテナ

[デジカメ時代] 

しばらくして、安価な国産カメラを手に入れて自分なりに写真撮りに熱中したものの、戦時中にはフィルムの入手が不可能となり「カメラいじりはいつか影を潜めてしまった」戦後になるとカメラメーカーも急増、「何種類かのカメラをいじってきたが、今はデジカメ全盛期であり、200万画素のカメラに次いで、平成13年(2001年)には一眼レフを購入、行く先々で案内標識から、建物などすべてを撮りまくる」ほどの熱心さである。

[アマチュア無線の思い出] 

久米さんの長いアマチュア無線生活の中には、おもしろい話題や思い出として残っている事柄がある。そのいくつか紹介しよう。久米さんが免許を取得してすぐに、全国紙3社から「災害や事件報道の記事送信に協力をしてもらえないでしょうか」と、丁重な依頼を受けた。当時は有力新聞社でも電話に頼っており、地方では通信手段に困っていた。久米さんは電波法を説明し、業務には使用できないことを説明、原則としては協力できない、と断っている。

このため、久米さんは「今日に至るまでどこのマスコミとも公平に接触してきた」という。昭和32年(1957年)10月4日、当時のソ連が初の人口衛星「スプートニク」を打ち上げた。マスコミは衛星からの電波受信を記事にするため、各地でアマチュア局に殺到した。「スプートニク」は、国際会議で決められていた108MHzではなく20MHz、40MHzの電波を出したため、108MHzで準備していた局もあわてふためいた。

久米さんのところにも新聞社が訪れた。なんとか、20MHzを受信したが「周辺に同じような信号が聞こえ、特定できなかったが、聞いていた記者は信号をとらえたと決めて記事にした。いまだに正しかったのかわからない」と、久米さんは苦笑する。

久米さんがこれまでに作った「JA5AA」のカード

[久米さん偽物事件] 

やはり、免許取得後すぐのことである。ある日突然電波監理局から「指定外の波使用」の警告の電報が届いた。問い合わせると「○月○日○時○分、指定外の7MHzで通信した」というのである。そもそも、久米さんは7MHzの申請はしておらず、電波を出しようがなかった。調べてみるとその日は、供給元の徳島変電所が作業停電日であり、「そのむねを釈明した結果疑いは晴れた」こともあった。

ハム仲間には「CQ ham radio」などの誌上で「7MHzで私のコールを聞いたら知らせて欲しい」と依頼、多数のレポートをもらいその内容を監理局に報告したが、犯人はわからない。そこで、久米さんは7MHzを追加申請し7MHzでの交信を始めたところ、今度は相手は14MHzで久米さんを名乗るようになった。「結局、最後まで犯人はわからず、何の目的かもわからなかった」という。「私のところに交信しないDXからのQSLカードが送られてきて、事情を説明する文書とカードを返却する郵便代だけでも大変でした」という。

[ハムの優しさ] 

久米さんが徳島県の剣山に登り頂上から交信していた時のことである。山のふもとから真っ黒な煙が立ち昇り、所々に火が見える。「これは山火事だと思い、連絡のとれた局に消防署に連絡を依頼した。ところが、それは消防署に届出をした“山起こし”だったことがわかり、あわてた自分に苦笑いした」こともあった。

「それにしても、昭和30年代のハムは皆親切でした」と、久米さんは当時を懐かしむ。高松時代、地理不案内のハムがフェリーで上陸、目的地への道案内を求めてくることが少なくなかった。聞いていたハムの一人が「今、そこに行きます」と、案内を買って出た。また、ガス欠で止まってしまった車に、ガソリンを買って持って行ったハムもいた。「こういう話しが多かった」と、麗しい体験談を話してくれた。

平成10年、JARL徳島クラブは50周年を迎え、記念式典を行い久米さんは挨拶した

[今後のアマチュア無線] 

久米さんはハムの減少に頭を悩ませている1人である。「若者は皆“携帯電話症候群”になっており、また“パソコン塾”“パソコン教室”のチラシは目につくが“アマチュア無線をやりませんか”のチラシは見たことがない」と嘆く。今回のJARL役員の選挙でも「立候補者の意見にハムを育てるための方策が見当たらなかった」という。

「私達がハムになった道程とは異なるのはわかっているが、アマチュア無線に感激したり、関心をもつ機会があまりにも少ない」ことが問題と指摘する。「マチュアバンドのSWLに使える安価な受信機、それもキットであればなお良い。それを教材にした入門の勉強の場をつくったらどうか」提案する。「なんとか知恵を絞って果敢に取り組まなければアマチュア無線の明日は無い」とまで語っている。