香川県の北部を走る高松琴平電気鉄道琴平線。東は県庁所在地の高松市から西の終点は海の守り神で有名な『金刀比羅宮』のある琴平町まで20駅、約33キロを走る。沿線には松の美しさで有名な栗林公園があるが、琴平駅から3つ目の岡田駅も一昨年(2000年)8月までは全国的にも知られていた。大型レジャーランド『レオマワールド』があったからである。

高松琴平電鉄琴平線:高松市と琴平の間を走っている。

稲毛さんの自宅はその岡田駅から歩いて数分の距離、綾歌郡綾歌町岡田の海抜80mの地にある。『レオマワールド』は1991年4月にオープンし、当初はにぎわったものの入場者が除々に減りだし、ついに一昨年8月末に休園となってしまった。このため、綾歌町は元の静かな町に戻っている。

岡田駅:稲毛さんの最寄駅。レオマワールド開園中は賑わった。

昭和12年。この年は、わが国のその後の運命を決めることになる大きな出来事が発生した年であった。7月には中国・北京郊外で「盧溝橋事件」が起き、それをきっかけに日中は戦争に突入した。11月にはローマで日独伊(日本、ドイツ、イタリア)三国防共協定が締結された。この協定は昭和15年には日独伊三国同盟として強化されるが、世界を相手にした第二次大戦への布石でもあった。

稲毛さんはこの年の4月12日、当時は岡田村といわれていた現住所に生まれる。地元の岡田小学校(当時は国民学校と呼ばれていた)時代は戦争中、戦後と重なるが、比較的のびのびと育ち、また、農家であったことから豊かではなかったものの、飢えに苦しむこともなかった。

ラジオ少年になったのは昭和23(1948)年、小学校5年生の時だった。近くに満州から原田剛少年の家族が引き上げてきたのがきっかけだった。戦時中の疎開(大都市の小学生などは戦火を避けるため集団で地方に移り住んだ)や、戦後の引き上げ(満州、中国、朝鮮半島などに住んでいた日本人は戦後、国内に帰ってきた)では、地元の小学生と、移ってきた小学生との間は必ずしも仲が良くなく、いじめなどの問題が各地で起きた。

しかし、稲毛少年と同級生の原田少年の場合は家が近いこともあり、すぐに仲良しになった。原田少年は鉱石ラジオを自作しており、それを聞かせてくれた。こんな簡単なものでラジオが聞けることに驚いたが、原田少年は「君も作ったらどうか。作り方を教えるよ」といってくれた。それから、稲毛少年はラジオ受信の虜になっていった。

原田少年は、中学進学に会わせて高松市内に家族とともに引っ越してしまった。一緒に遊び、なんでも話すことのできた原田少年との別れは寂しかったが、二人の交流はその後も続いた。ラジオ用の部品は高松市のラジオ屋まで行かなければ手に入らない。原田少年が高松市に住んでいたことは、その面ではありがたかった。新しい部品や材料の情報を聞くことができたからである。稲毛少年は、高松まで電車賃を節約するために自転車で出かけた。往復約60キロ、当時の自転車は空気入りのタイヤを使っておらず、硬いゴムが車輪についていた。「道路も舗装されていなかったのですが、好きな部品が手に入る喜びで、長い距離も、お尻が痛くなるのもつらいとは思わなかった」と稲毛さんは振り返る。