昭和25年、稲毛少年は岡田中学校に入学。すぐにボーイスカウトに入団する。「揃いの制服を着て、きびきびと行動する姿を小学生の時からまぶしく感じていた」という。そこでモールス符号を習得する。ボーイスカウトでは連絡の方法として手旗信号も学んだ。モールスは別に無線があったわけでもなければ、有線での送受信をする設備があったわけでもない。「音だけで情報連絡をさせるのが目的だったと思う」と今思い出している。

中学時代の稲毛少年

その時、稲毛少年はラジオ製作の知識を使い、UY-76の真空管を使った低周波発振機を作り、モールス符号の音声再生をやって見せ、皆を驚ろかせた。ボーイスカウトのモールスは1分間に15字を打つことが資格条件。アマチュア無線の資格条件(1級65字、2級45字)よりはるかに緩いが、その後のアマチュア無線の受験では多いに役立った。

戦争中、停止されていたわが国のアマチュア無線は、戦後になっても再開が遅れていた。理由はいろいろあるが、最大の理由は戦後日本を統治していたGHQ(進駐軍)の意向であった。進駐軍といってもその主体は米軍であったが、米軍は必要上、多くの周波数を使用して通信を行なっていた。

また、戦後の新しい電波行政を敷くに当たっては抜本的な法整備が必要であった。そのために再開は、同じ敗戦国のドイツと比較しても遅れていた。再開が始まるらしいという情報が伝わってきたのは「電波三法」が制定された昭和25年の翌26年であった。稲毛少年は興奮した。早速、大河内正陽(J2JJ、JP1BJR)さんが書かれた「アマチュア無線入門」を求めて、勉強を開始した。中学2年になっていた。

大河内さんの「アマチュア無線入門」を稲毛少年はむさぼり読んだ。

大河内さんは大正5年生まれ、昭和7年に開局し、戦前、戦後のアマチュア無線の発展に貢献された。100カ国以上と交信したハムが資格を得る「DXセンチュリークラブ」には、九州の井波眞(JA6AV)さんの連載「九州のハム達~井波眞さんとその歴史」のなかで紹介した堀口文雄(J5CC)さんに次いで日本では、2番目の加入を認められた。同時に、JARLの活動にも熱心に加わり、戦後のJARL再結成、アマチュア無線再開には中心的に活躍された。

戦前、戦後に大河内さんとともに活動された一人が森村喬(J2KJ)さんであったが、森村さんについてはこの一連の連載である「あるアマチュアOT(オールドタイマー)の人生」で紹介している。大河内さんの「アマチュア無線入門」は、新書版サイズで、価格は120円。オーム社から発行された。当時としては、高価だったように思うが、昭和20年代のアマチュア無線を目指す方の道しるべだった。大河内さんはお元気であり、昨年(2001年)11月6日開催された「レインボーDX会」に奥様とともに出席された。

昨年(2001年)11月に開かれた「レインボーDX会」には、大河内さんはご夫婦で出席された。

「技術を手につけたほうが良い」という父親の意見もあって、稲毛少年は昭和28年(1953年)に多度津工業高校に入学する。自分でもその方面が向いていると思ったらしい。入学してすぐに当時、「並4」「高1」と略称されていた真空管ラジオを作り、次いで5級スーパーラジオを自作する。高校にはラジオ少年の仲間が5、6人いた。お互い相談しながら短波受信機を作り、まずSWLに熱中した。

受信した局のリストを作り、受信レポートをはがきで送りまくった。「切手を送ったほうがQSLカードが返送されやすいと聞いて、はがきに未使用の返信用切手を貼った。子供心に切手をべた付けしてしまうと剥がせないと考え、切手の一部を貼り付け、剥がれ落ちないようにするため、切手全体を覆うように紙を貼りつけた。大量に投函したこともあって、郵便局から叱られた」想い出を語っている。

海外の放送局にも受信レポートを送った。「海外の放送局のアドレスをどのようにして知ったのか、今思い出せない。当時のラジオ雑誌に掲載されていたようにも思うし、NHKの高松放送局に行きリストをいただいたような記憶もある」という。