そして、いよいよ送信機を作る。『水晶発振子』は価格700円。資金がない。稲毛少年は切羽詰って、父親の目をごまかしては、家から米を持ち出し弁当屋に売りに行く。「当時、家には大きな米の貯蔵タンクがあり、かなりの量を抜き取ってもわからなかった」という。また、資金を補うために、稲毛少年はこの間に盛んに5級スーパーラジオを作り、周囲に販売した。「10台ぐらい作ったと思う」という。

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稲毛さん自作の通信機。初代は廃棄されてはいないが、これが2作目。

昭和20年代は、ラジオの生産はメーカーによる生産が本格的ではなく、販売を行なっていたラジオ店が自作して販売するケースが多かった。また、腕に自信のあるいわゆる「アマチュア」と呼ばれる人も自作して、知り合いに販売してもいた。部品を購入し、自作する方がメーカ製よりも安価にできたため、ラジオ屋にとって自作製の商品の方が利益も大きかった。このため、ラジオキットを販売するメーカーも登場した。

稲毛少年はコイルキットを求め、その他の部品は個々に買い求めてきては次々に作り上げた。送信機は、このようにしてため込んだ資金で作ることができた。送信機を完成させてもアンカバー(不法送信)はしなかった。暗い押入れに入って、アンテナ出力のところにネオン球を取りつけて、その点滅状態により出力状況をチェックしては楽しんでいた。

恐らく、この頃には稲毛少年の技術や理論は、アマチュア無線の資格試験を取るのに十分なレベルに達していたと思われる。しかし「試験を受けに行ったり、無線局の検査を受けるためには学校を休まなければならない。それができなかった」という。何しろ高校入学以来無欠席が続いていた。それを続けたかった。しかし、3年生になってしばらくして食中毒で欠席せざるをえなくなった。無遅刻の記録は破れた。それで踏ん切りがついた。昭和30年(1955年)11月12日、第1級アマチュア無線技士を受験、合格。従事者免許証は翌31年に発行されてきた。

それでも、すぐに開局したわけではない。検査に合格する送信機を作る必要があったし、アンテナを建てなければならない。やはり、金が必要であった。33年になって準備を始めた。送信機には「マルナナ」と呼ばれていた真空管UY-807を使用した。当時は送信機の80%がこの「マルナナ」を使っていた。できあがったものの自励発振が起きてしまい、それを防ぐために苦労した。

アンテナの柱には孟宗竹を買ってきた。軽く焼いて油抜きをした後、節の間をひとつずつ棕櫚(しゅろ)の葉で作った紐で縛った。竹を丈夫にするとともに割れるのを防ぐためである。20mのダイポールアンテナを作り、引き出し線のフィーダー線は自作した。二本銅線の間に割り箸をセパレーターとして取り付けた。「一本、一本割り箸をロウ付けして15mほどのフィーダーを作り上げた。面倒な作業であったが楽しかった」稲毛さんは記憶をよみがえらせている。

送信機作りやアンテナ設計などは、当時高松市内でラジオ店を経営していた太田等さんが丁寧に指導してくれた。34年に無線局の検査を受けて、一回で合格を果たした。この頃は、無線局の周波数がきちんとハムバンド内に納まっているか、出力は規定通りか、高調波により周辺に迷惑をかけていないか、などを調べるために地元の電波管理局の検査官がやってきて測定器で検査し、問題がないと合格の判定を下し、ほどなくしてコールサインがもらえることになっていた。

戦前からのハムである太田さんは、戦後、若いハムの面倒を見た。

稲毛さんのコールサインはJA5MG、34年4月1日付けだった。その日、早速電波を出した。交信相手はJA5AG、太田さんであった。当時はアマチュア局の数も少なく、太田さんとは近距離であったので比較的簡単に交信ができた。「太田さんとは時々お会いしてはいたものの、電波を通しての交信となるとまた別の感激がうまれた。その後の半年間は寝る間を惜しんで、CW、電話の両方を使い分けての交信に没頭した。初めての海外はW6(米国)であり「この時はさすがにキーを叩く手が震えた」という。