稲毛さんの初交信の相手である太田さんは大正3年生まれ、昭和9年にJ4CMのコールサインで開局している。四国における戦前のハムの一人であり、戦後はJA5AGのコールサインを再公布されている。これから、しばらく太田さん達が活躍した四国の戦前のアマチュア無線についての話しを進めて行きたい。

昭和2年(1927年)にわが国では初の個人短波実験局の免許が行なわれたが、その時のコールサインのプリフィックスはJXであり、エリアコードはなかった。エリアコード制となったのは翌3年10月である。ところが、四国には電波監理局がなかったため、香川と愛媛の2県は中国と同じJ4となり、高知と徳島の2県は関西と同じJ3となった。このため、戦後55年以上も経った現在、J4、J3のコールサインリストから四国のアマチュア局を探すのは簡単ではない。

四国、中国、関西のエリア分け---「無線と実験」第16巻第4号より

稲毛さんは、昭和15年(1940年)12月に発行された宮井宗一郎(J3DE)さんが作成された「日本短波長無線電信電話実験局名簿」を持たれている。そこには四国地区として個人局6名、教育施設4校がリストアップされている。宮井さんは和歌山の人で、昭和7年から毎年1月に自費でコールブックを出版、無料で配付していた。立派な内容であり、最も多い時には1000部を発行していたという。

やはりOT(高齢のハム)の一人である矢木太郎(J2GX、JH1WIX)さんは、この宮井さんの偉業について「コールブックがどれほど私達に役立ったか考えますと、宮井さんこそJARLの陰の功労者の筆頭と申して良い。費用面の負担もきっと大変だったことでしょう。」と「JARL NEWS」の44年(1969年)1月17日号で書いておられる。

しかし、そのリストにも漏れがあった。昭和15年時点で、免許を失効してしまったハムは掲載されていないためである。JARLニュースの昭和6年(1931年)12月10日発行号に丸亀市の近木尚(J4CG)さんのJARL加盟が載っている。さらに、翌7年10月号で近木さんの投稿が見つかった。内容は「何しろ田舎であり、石(水晶発振子)が手に入らず、J4CHさんと共同で使っている。どなたか分けてくれませんか」というものであった。この結果、新たに、2名の四国のハムがはっきりした。

J4CHが誰かはすぐにわかった。6年あまり前の平成8年(1996年)1月までJARL資料室に勤務しておられた藤室衛(JA1FC)さんは、戦前のハムリストをまとめられた。戦前の他のコールサインや戦後のコールサインまで調査し、免許取得日、生年月日、免許の失効、サイレントキー(亡くなった)年月日も付記している。大変な労力であり、できあがった資料は貴重なものである。ただし、住所までは記されていないため、先に触れた理由からJ4、J3のプリフィックスだけでは四国地区の局かどうかは確認できない。それでも、J4CGの近木さんが判明すれば、CHは遠山寅夫さんであることがわかった。

近木さんについては、この藤室さんのリストである程度のことがわかる。近木さんは明治35年5月7日生まれ、昭和6年9月5日に免許を取得したが、10年4月に失効している。その後、昭和15年2月10日にJ2CIのコールサインで再登場する。アマチュア無線免許は日米開戦が必至となりつつあった昭和15年に許可されたのが最後に戦前の歴史は終わっている。

リストで調べてみると、どうやら昭和15年10月が最後の公布だったらしい。また、近木さんの2度目のプリフィックスであるJ2は、名古屋電波監理局管内であるが、この免許も翌16年2月に失効している。まだ、行政による禁止の前である。開戦直前の混乱期でもあり、人々の生活もあわただしい時代であった。理由はわからない。戦後、近木さんはアマチュア無線を再開されなかった。

四国の戦前のハム(判明している個人局のみ)