近木さんは、戦後、アマチュア無線を再開されなかったこともあり「レインボー会」には加入されていない。しかし、あるアマチュア無線局が近木さんの想い出を平成13(2001)年3月31日発行の「Rainbow News」に寄稿しており、さらに、近木さんの細かなことを知ることができた。「レインボー会」については、別の連載(九州のハム達。井波眞さんとその歴史)で触れているので詳しくは説明しないが、戦前活躍したOT(オールド・タイマー)やOM(オールド・マン)が親睦を図るために設立した集まりである。「J4CG 近木尚先生の想い出」を書かれたのは石津和彦(JA4HM)さんである。

レインボーニュースに掲載された「近木尚先生とともに」の一部を掲載。

それによると、近木さんは昭和2年(1927年)に京大(当時は京都帝国大学)理学部化学科を卒業し、丸亀高等女学校、名古屋の工業試験所、大分高等商業学校、旧制広島高等学校の教授を経て、山口大学に勤務した。京大時代、指導教授の小松先生から「ハムをやめるか、化学をやめるか」といわれ「どちらもやめません」と答えたという。

石津さんは昭和25年の春に、山口大学の文理学部化学教室で初めて会う。「先生の研究室で最初に目に触れたのが、14MHzの送信機でした。水銀整流管の怪しい光は今もわたしの脳裏に残っています。・・・・(中略)・・・・ お茶の時間にお聞きする話しはほとんどがハムの話でした。」と書いている。石津さんの記憶が正しければ、昭和25年はまだ、アマチュア無線再開が行なわれる前である。水銀整流管の怪しい光は、アンカバーの火なのか、想い出の送信機に火を入れて楽しんでいたのかについては触れられていない。

昭和55年(1980年)9月8日、近木さんは亡くなる。それまでの間、石津さんは公私ともに近木さんのお世話になる。近木さんに海外留学を奨められたり、任官先についても世話を焼いてもらっている。また、高周波を物質変換に活用するヒントいただいたりした。石津さんは、近木さんがいろいろな話しをされるが、いつのまにか話題がハムの話になるのを聞いていて「わたしは先生を一生涯虜にするハムの世界とは、一体どんな世界か少なからず興味をもった次第です」と記している。

そして、ついに化学者の石津さんも引きこまれる。1-V-1の受信機を組み上げ、昭和30年(1955年)には免許を取得する。近木研究室の卒業生は今でも「おんばか会」の名称を持つ会合を開いているという。学生や、後輩に好かれた学者であったといえる。

一方、ハム仲間として、近木さんと親しかった遠山さんは、明治40年12月8日に生まれ、近木さんよりわずか1カ月半後の昭和6年10月22日に免許を取得し、昭和9年1月に失効している。その後は戦後になっても免許を取られた形跡はない。

戦前の四国のアマチュア無線について書かれたものはほとんどない。全国の他の地区もそうであるが、戦前に免許を取られた人達が戦後のアマチュア無線の再開時に再免許に挑戦したケースが少なく、戦争を境に歴史の伝承が途切れているからである。そのなかで、太田さんや大塚政量(J4DE)さんなどは戦後も活躍された。大塚さんは、昭和58年10月に発行された「JARL四国地方30年のあゆみ」に寄稿されており、戦前についてわずかながら触れている。

大塚政量(J4DE)さん「四国地方30年のあゆみ」より

徳島県と高知県が近畿電波監理局管内、香川県と愛媛県が中国電波監理局管内であったことを記したあと「四国山脈で四国地方は2分されており、四国地方を一つにまとめた支部の創設など考えたこともありませんでした。・・・・昭和18年(1943年)の頃、松山市に現在の四国電波監理局に相当する役所ができ、四国はひとつになりましたが、当時は第2次大戦中で、私達アマチュア無線の活動は禁止されておりましたので、コールサインの変更などはなく、昭和27年の再開を迎えることになりました。」と想い出を語っている。