昭和16年、戦争勃発とともにアマチュア無線は原則として禁止されるが、そのあおりを受けた人は多い。これまで、この連載で紹介したJARLの現会長である原(JA1AN)さん、井波(JA6AV)さん達の年代がそうである。理論、技術ともに十分な能力を持ちながら、昭和15年末には受験の機会はなくなっていた。四国では久米正雄(JA5AA)さんがそうであり、「四国地方30年のあゆみ」の中に、戦前に免許の取れなかった悔しさを訴えた文書が載っている。少し長くなるが戦前にハムになれなかった若者の心情を代弁しているため、引用してみる。

四国地方30年のあゆみ(昭和58年10月発行)

--いま、私の手もとに「短波実験局の設計と運用」という1冊の本があります。昭和13年9月15日、誠文堂新光社発行、逓信省工務局、高瀬芳郷著、定価2円とあります。この本こそ、戦前のハムにとって、唯一のバイブルというべきもので、国際法の解説から始まり、モールス符号の覚え方、キーの扱い方、QSOのやり方、局の設計方法、申請方法にいたるまで、実に詳しく説明しております。当時は、現在のようなアマチュア局ではなく「私設無線電信電話実験局」の名のもとに、空中線電力10W、運用許容時間は2時間区切りで、1日延べ1時間以内など、極めて限られた条件の下に許可されていました。

当時、中学生であった私は、この本を通じて、世の中にハムというという素晴らしいホビーの存在することを知り、学校の勉強を放り出して、くり返し、くり返し夢中になって読みふけりました。そして、手作りの0-V-1(高周波増幅なし、低周波増幅1段のラジオ受信機)のコイルを巻いたりほぐしたりして、ようやくハムバンドをみつけた時は、天にも登る心地だったことを覚えています。今も記憶に残るのは、Ex J2PU(現JA1AD、斎藤健さん)の「本日は晴天なり」の試験電波でした。このように、いつか自分もライセンスをとって、ハムをやりたいと心に誓い、同級の島田君(現JA5EN)と、お互いに夢をふくらませておりましたが、・・・・戦争への足音が高まるにつれ、次第にハムどころでない世の中になり、そうして、昭和16年12月8日、開戦と同時に、戦前のわが国のハムの火は、ついに消えてしまい、私の夢もしぼんでしまったわけです。--

JA1AD 斎藤健さん(Ex:J2PU)

このあと、この文章は次のように進む。「余談になりますが、中学時代の私の思い出の中に生きる一人のラジオ屋さんのご主人がいました。いつも部品を買いに行くと、いろいろ教えてくれました。この人が、その後“徳島ラジオ商事件”の被害者となった三枝さんでした」この事件について簡単に触れると、昭和28年11月に徳島駅前にあった三枝電気店八百屋町営業所で、経営者の三枝亀三郎さんが殺害されたもので、逮捕された犯人の死後に真犯人が現れ、無罪が確定されという「免罪事件」として有名となった。

わき道にそれたが、再びアマチュア無線の世界に戻ることにする。戦前の四国のハム達とJARL(日本アマチュア無線連盟)との関係はどうだったのだろうか。JARLニュースを見ていくと、昭和6年(1931年)6月25日号に松原正さん、12月10日号に近木尚さんの加盟がそれぞれ載っている。遠山寅夫(J4CH)さん、岡本良雄(J4EA)さんの加盟がいつであったかはわからないものの、その後のニュースにはこれら2氏の近況が掲載されている。

JARLは、まだアマチュア無線が許可されていなかった大正15年(1926年)6月東京、関西地区のアンカバー局が中心となって発足した。昭和4年(1929年)には独立した機関紙「JARLニウス」が関西で発行され、昭和6年には第1回のJARL総会が名古屋で開催されている。その後、昭和16年まで10回の総会(昭和16年は創立15周年記念大会)が開かれているが、これらの総会には中国地区の岡田誠一(J4CE)さんが第1回に出席したものの、四国から参加の記録は見つからなかった。