戦前の日本のコールサインは、先に触れたように、昭和4年にエリアコードが取り入れられ、日本本土と、当時植民地であった朝鮮、台湾が9つのエリアとして表示された。朝鮮はJ8、台湾はJ7であった。日本本土からは多くの国民が朝鮮や台湾に転勤したり、移り住んだ。ある人は駐在軍の軍人として、ある人は行政官として、さらに、民間では事業活動のために渡った人も少なくなかった。

四国からは滝川正巳(J8CH)さん、大西千秋(J8CL)さんの2人がJ8のプリフィックス(コールサインの前の部分で、国籍とエリアコードを指す)であることがわかっている。ともに、戦後、再び免許をえており活躍された。滝川さんは大正2年生まれ、大西さんは明治44年生まれである。ちなみに、戦前のJ8のコールサイン局は26局、内個人局は19局だった。

永瀬邦男(J3GY)さんは大正2年生まれ、戦後はJA0RHAとして再免許を取得しているが、戦前にはJ2LBのコールサインも持つ。戦前に2つか3つのコールサインをもったハムは少なくないが、四国では永瀬さん一人の可能性がある。その永瀬さんが昭和61年11月30日発行の「レインボーニュース」にご自身の生い立ちや、ハム歴を寄稿していた。比較的長文であるが、戦前のハムの典型的な姿を知ることができるので概要を紹介したい。

レインボーニュースに寄稿した永瀬さんの思い出の文章(書き出しの一部)

高知市で生まれた永瀬少年は小学校5年生の時に、友達と鉱石ラジオを自作する。本を調べて鉱石検波器用の方鉛鉱を鉱物見本の店で購入し、ハンマーで割った。綿巻線は扇風機の修理店から買い、コイル芯は呉服の巻芯を利用、クリップは小さい蝶バサミ、針は安全ピンを活用した。「もちろん地方放送局はない。漁業無線が便りである。波長も何も分かったものではない。そのうち根負けしてしまった」という。電気に興味を持ち、中学への進学を勧める先生の意見を聞かずに工業学校に入学。京都から転任してきた先生の自宅で2-V-2のラジオを聞き、東京、名古屋、大阪の各ラジオが聞けることを知る。

鉱石検波器に使われた方鉛鉱

永瀬さんは広島高等工業へ進学し、スポーツに熱中する。卒業後は横河電機に入社。そこで小林吉雄(J1HB/J2IW)さんに指導を受けて、キーの持ち方など初歩から教えてもらう。昭和8年(1933年)に永瀬さんはアマチュア無線(短波長無線電信無線電話)を受験、翌9年に設備の検査を受けて、その日に初交信。「初めて電波を出したらハワイから応答してきた。自分の手作りの装置で電波が海を渡ったのだとうれしかった。この感激がさらに幾度も重なってアマチュアラジオへの執着になるのではなかろうか。」と書いている。

アンテナは40m波長のツェップを張ったが、アメリカへは良く飛んだが欧州がだめだった。90度位置を変えて同じようなアンテナを建てることは土地が狭くて難しい。そこで、八木アンテナを張ることを計画。アルミパイプがないため、垂直の八木アンテナを電線を垂らして製作。予想通り欧州との交信が増加した。「常に定期的に私を刺激してくれたのは大阪ビル・レインボーグリルのミーティングである。そして、さらに親交を温めたのは蒲郡ホテルでの(JARL)全国大会である。」と懐かしげに当時を語っている。誤解のないように記しておくと、大阪ビルは東京の内幸町にあり、大阪ではない。また、蒲郡ホテルでのJARL第4回全国大会が開催されたのは昭和10年4月であり、出席者は24名であった。

永瀬さんは海軍関係の仕事に従事するが、激務に体をこわして、高知に戻り長期療養を迫られる。そこでJ3GYを取得したが、高知県では個人としては初のアマチュア無線局だったという。「東京にいた時から見ると島流しのような寂しさがある。一人で実験を続けた。5m帯が主な実験場であった。これを戦争開始で中止命令が出るまで細々と続けた。」と、J3GY取得の経緯を説明している。その後、当時の大阪帝大産研、戦後は大阪大学に勤め、さらに、民間企業に勤務した。戦後の免許は昭和48年(1973年)に2アマを受験して取得している。