昭和6年(1931年)には満州事変が勃発、7年には5.15事件が起き、ドイツではナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)が総選挙で230議席を占め、第一党となった。また、ソ連ではスターリンが独裁体制を確立したのもこの年であり、世界的に“きな臭さ”が漂い始めていた。日本は、満州国を建設したが、欧米からは日本の侵略性が批判され始めだした。

アマチュア無線局も万一の時には役に立とうとして始められたのが非常時訓練であり、その最初の非常時訓練が昭和7年3月2日に関西で行なわれた。J3エリアのアマチュア局30数局が参加したこの訓練について、朝日新聞に勤めておられた小林幸雄さんが昭和30年代半ばに書かれた「日本アマチュア無線史」のなかで触れている。想定は大阪が敵機の空襲を受けることになり、高松で敵機来襲をつかみ、ハムがリレー交信して大阪に伝達するというものであった。

高松では松原正(J4CF)さんが和歌山の宮井宗一郎さんに連絡し、その後、宇治山田、四日市、名古屋、岐阜、彦根、京都、伊丹、神戸へと伝え、防空体制を敷くというものであった。また、この時、梶井謙一(J3CC)さんと浅村恭三(J3CR)さんは統制本部局として、指令を出しつつ、東京、仙台、札幌、福岡など遠隔地にも警戒の情報を流した。この訓練は、その後の各地で行なわれた同様の訓練に大いに役立ったという。

この訓練がきっかけとなったかのようにして、全国各地に「愛国無線通信隊」や「防空無線隊」が続々と発足、昭和12年には名称は「国防無線隊」に統一された。増加したアマチュア無線局は、このような組織を通して軍に協力して演習に参加したが、四国での「国防無線隊」の記録は今のところ見つかっていない。

開戦前に各地のハムは「国防無線隊」を組織した。昭和12年9月の編隊式で挨拶する八木太郎(J2GX)さん。JARL発行「アマチュア無線のあゆみ」より

太平洋戦争開戦とともにアマチュア無線は禁止された。戦後になってわかったことであるが、全国一律に1度に禁止命令が出たわけではなく、地域によって時間差があったり、指令内容もさまざまだった。また、最後まで受信だけ禁止されなかったハムもいた。さらに、軍に協力を依頼されたハムの中には、何らの禁止もされなかった方もいる。開戦後も、停止命令が遅れて届いたハムの中には知らずに開戦後しばらく海外と交信を続けていたケースもあった。ちなみに、開戦直前のアマチュア局は331局であった。

大塚さんが受け取った電波停止命令の電報。JARL発行「アマチュア無線のあゆみ」より

大塚さんも12月8日の開戦の日付で電波発射停止の電報を受け取った。内容は次のようなものだった。

宛名
    カミタカタカノムラ三八九八」オウツカ セイレウ
本文
    キシセツジッケンヨウムセンデンシンムセンデンワハホンジツイコウナニブンノツウチアルマデ一サイノデンパノハッシンヲキンシセラル」ヒロシマテイシンキョクテウ

戦前の四国のハムを見つけ出すのに広島市にお住まいの井原達郎(JA4AO)さんにも助けていただいた。中国地区のハムを調べていただくためであったが、それでも、個人の全J4局19局のうち、四国か中国かわからないハムがまだ2名いた。岸上英三郎(J4CU)さんと樋端薫(J4CW)さんである。稲毛さんは、宮井さん発行の別の年次の「コールブック」を見ればこの二人の所在地がはっきりすると推定し、何とかそのコールブックを探し出した。その結果、両名ともに香川県の大川郡であったことがわかった。

その岸上英三郎さんが写っている1枚の写真がある。JARL発行の「アマチュア無線のあゆみ」第1巻に「漢口で前線JARL大会が行なわれた」と名付けられた写真が掲載されており、7名のハムが並んでいる。昭和13年11月30日の日付であり、写真の提供者は山本信一(JA3CS)さんだった。山本さんに岸上さんについてお聞きしたかったが、昨年(2001年)2月にサイレントキー(死去)となっておられた。ついでに、写真の7名の名を記しておくと、三本義喜(J2MU)山本信一(J3CS)長谷川正明(J2ND)西丸政吉(J2MN)武田国雄(J2MY)岸上英三郎(J4CU)の皆さんである。

昭和13年11月、漢口で開かれた「前戦JARL大会」出席者。左から三木義喜、山本信一、長谷川正明(J2ND)、西丸政吉(J2MN)、武田国雄(J2MY)、一人おいて岸上英三郎(J4CU)の各氏。JARL発行「アマチュア無線のあゆみ」より