一方、戦前のJ3局は四国では永瀬さんだけであるが、J3個人局126局のうち、四国が1局だけなのはいかにも不自然なように思える。永瀬さんが高知県に戻られた年ははっきりしないが、早くて昭和11年、遅くても15年頃と推定される。この頃に、永瀬さんが書いているように「高知県で初めてのアマチュア局だった」とすると、あるいは四国のJ3局が1局だけの可能性もありうる。いずれにしても、関西地区の歴史を調べる機会に完全を期すことにして、今回はここまでにとどめておいた。戦前の四国のハムは香川県に集中しており、その中でどうやら、松原さんが四国のアマチュア無線局の第1号ということになる。

戦後、アマチュア無線の再開を熱望するのは四国地区でも同様であった。待ちきれなくなった香川県下のハムや無線ファンは昭和23年(1948年)10月、NHK高松放送局に集まった。会合した20名強は「香川クラブ」を結成することを決め、初代の会長に岡本良雄(J4EA)さんを選出した。その前後にはあちこちでクラブが発足した。JARLニュースの24年5月号にはJARLに登録されているクラブとして「高知ハムラジオクラブ(所在地=高知市播磨屋通り、代表者=池三郎さん)」と「高知ラジオアマチュアクラブ(所在地=高知県長岡郡、代表者=三木義喜さん)」が掲載されている。

「香川クラブ」は昭和24年に「受信機製作コンクール」を実施するなど活発な活動を始め、25年には太田さんを2代目の会長に選ぶ。昭和25年10月から26年1月までのクラブ運営誌に記録された内容を太田さんが、創立25周年記念号に掲載している。それを読むと、待ち望んでいるアマチュア無線の再開はどうなるかわからず、毎月のミーティングの出席率は悪くなり、研究の発表もなく「解散」の動議さえ出たことが記されている。いつになるかわからない免許再開に、あきらめの気持ちとなっている会員の様子が伝わってくる文章が並んでいる。

JARL香川クラブは、昭和48年に創立25周年を期に「香川クラブ報」を発行した。

この頃の全国の動きは、すでに21年にJARL再結成の全国大会が東京・新橋の蔵前工業会館で開催され、JARLの機関誌として「CQ ham radio」も発行され、再開に向けての積極的な運動が始められていた。この頃、兵役のため外地にいた大塚さんは内地(日本)に引き上げてきて、国家地方警察技官として無線通信関連設備の調査研究を行なっていた。昭和24年(1949年)、大塚さんの人生を決める大きな出来事が起こる。

大阪にあった大阪無線電信講習所が香川県の詫間町の旧海軍航空隊に移転してきたのである。その時のことを大塚さんは「ひとつの学校、とくに実験実習施設をもつ学校が大阪から遠く離れた詫間町へ移転するのは大変らしく、大阪より貨物船をひとつ借りて設備を持ってきた、と聞いた」と、昭和61年に詫間電波高専の校誌に書いている。移転した講習所は詫間電波高等専門学校に校名を変更したが、同時に大塚さんは現在の警察庁である国家地方警察から文部省に出向、24年7月に同校の教官となる。26歳の時だった。

その後、22年間勤務し、さらに詫間電波高等専門学校に代わってから15年間務めて、昭和61年に退官した。校誌に書かれているのは電子工学科教授を定年で去るときに「退官の挨拶」として寄稿された1節である。どういう事情で講習所が大阪から詫間町に移転したかは触れていないし、関係方面にも聞いたも定かにはわからなかった。

現在の詫間電波工業高等専門学校(正門から望む)

昭和26年(1951年)、ようやく日本でも第1回のアマチュア無線技士国家試験が始まり、翌年には全国30名に予備免許が与えられた。四国では徳島市の久米正男さんがJA5AAを取得した。その後、実施される試験ごとにアマチュア局の数が増えていった。再開に先立ち、コールサインは、ようやく四国地区を一本化することで決まったが、JARLの組織は、依然として全国4支部体制であり、関西支部は関西以西の広い地域をエリアとしていた。JARLは再開を契機にコールサインのエリアごとに支部を発足させることになり、四国では28年1月に四国支部設立準備会が開催され、4月に支部が発足している。