増加するハムの数に比例するかのようにJARL四国支部の活動は活発になっていく。昭和34年(1959年)8月8日に開かれたクラブ代表者会議は土曜日の夕方から夜半まで行なわれた。大塚さんは、この時の模様を「社団法人になって最初の会議であり、四国支部の運営をどうするかがテーマとなり、議論が白熱した。皆、ふとんに寝転んでもまだ話が続き、2~3時間ウトウトしたところで“朝飯だ”の声にたたき起こされた。それくらい充実した会議だった」と振り返っている。この他、35年の社団法人後初の支部大会の模様や、45年の四国支部事務局の開設、各県に連絡事務所長を置いたことなど、戦後のアマチュア無線再開から、昭和40年代前半までの大筋が記録されている。

一方、稲毛さんは高校卒業後、大阪の専修学校に通い、一時、通信関係の企業に勤務する。昭和39年(1964年)、結婚を機会に郷里に戻り、高松工業高等専門学校に奉職することになる。稲毛さんの無線工学知識が認められての採用であった。高松高専は昭和37年に設立され、39年に校舎ができるまで仮校舎を使って授業を続けていた。しかも、設立されての2年間は一般教育の授業であり、稲毛さんの教える専門教育は39年から始まった。担当は通信工学であった。

帰郷してからの稲毛さんのアマチュア無線は活動的になった。香川クラブに入会し、ハム仲間も増え、交信する機会も日増しに多くなり、DX通信にも積極的に取り組み出した。リグも新しいものを増設した。その頃、近くで電柱工事をしていた四国電力の方に「無線通信実験」に使用したいと依頼し、元口50cm、長さ13mの立派な電柱を貰い受けアンテナ柱とし、トライバンド・クワッドアンテナを上げた。

昭和45年には、高さ20mの四角鉄塔を建て、モズレーの3エレメント八木に代えた。この時、稲毛さんは本来なら巨額の費用のかかるタワーを安く仕上げてしまった。知人のハムの紹介で坂出市にある造船所で不要品となったクレーンのブームを、2トン1万円の極めて安い値段で譲り受けてきた。基礎に使用する5立方mの生コンもキャンセル待ちをし、ただ同然で購入できた。タワーの建設にはクレーン車にきてもらったが、その他はハム仲間5~6名が駆けつけて手伝ってくれた。タワー材料代よりもその後の仲間との「慰労会」の費用の方が高くなったほどである。

稲毛さんの家の庭に建つアンテナタワー。3エレメントの八木アンテナ。

念願のアンテナが完成し、それまでにも増して稲毛さんがマイクの前に座る時間が長くなる。CQ誌の付録であった「日本のアワード」を読み、アワードの虜になり、後に“アワードの帝王”とか“アワードの神様”と呼ばれるようになる。稲毛さんのアワードへの取り組みの前に、JARL(日本アマチュア無線連盟)四国支部(後に四国地方本部)の歴史と稲毛さんの働きを紹介したい。

昭和40年(1965年)6月、監査指導委員を引き受けたのを皮切りにJARL活動にのめり込む。昭和43年10月にはJARL四国地方監査長となり、56年までの12年間の激務に就く。監査は一言でいえばハムがアマチュア局に与えられた条件を守っているかをチェックする任務であり、電波法などの法的知識、技術力、折衝力など幅広い見識が要求される。

現在では少なくなっているが、当時はアマチュア無線電波が一般家庭のテレビ受像機やラジオ受信機に妨害を与える電波障害が多発していた。アマチュア送信波の高調波が妨害を与えたり、受信機内部で妨害信号を合成してしまうことが原因であり、TVI(テレビ受像機干渉)、BCI(ラジオ受信機干渉)、アンプI(オーディオ機器干渉)、テレフォンI(電話器干渉)と呼ばれていた。稲毛さんは、土日の休みのたびにエリア内を飛びまわった。障害の実情を聞き、お詫びをし、妨害を与えているハムには対策方法を指示して回った。

稲毛さんがかつて使っていたリグ類