多忙な四国地方監査長を務めながら、47年には香川クラブの会長に就任し、香川県のハムとともに10年間活動を続けた。このような活動が評価され、57年5月に四国地方本部長に選出されるとともにJARLの理事に就任する。翌58年10月、四国地方本部は発足30周年の記念式典を開き、記念誌「四国地方30年のあゆみ」を発行した。地方本部では初めての記念誌であり、B5判約170ページの立派な内容である。四国支部(後の地方本部)が発足して以来の30周年のあゆみ、各県支部の活躍の歴史のほか、関連データを掲載しており、発行後、全国の地方本部から参考に欲しいという要望が相次いだ。それ以降は、各地方本部でも記念誌を作成することが通例になっていった。

平成2年にはJARL四国地方本部事務局の開設20周年式典が開催された。JARLは、会員数の増加に伴ない、地方本部(前支部)単位で事務所を設けるようになっていった。基本的な基準はエリア内の会員1500名以上であることが条件であり、関東の昭和27年(1952年)は特別早かったが、他の地区では42年から45年にかけて設置された。四国地方本部事務所は45年にでき、平成2年が開設20周年に当たっていたのである。平成5年3月には地方本部40周年の記念式典を行なうとともに、再び「四国地方40年のあゆみ」を発行した。

平成5年に発行された「四国地方40年のあゆみ」

JARLの全国総会はこれまで四国では3回開かれている。昭和47年(1972年)、第14回総会は松山市の松山市民会館で開催された。四国では初の総会であり、いくつかのJARL組織改革が行なわれた。従来のエリアごとの支部を地方本部に代え、各都道府県ごとに支部を置くことを決めた。また、家族内に複数のハムがいる場合には正員が一人いれば、その他の家族は安い会費で済む「家族会員」制度が決定した。同時にJARLの副会長に大塚政量さんが選出された。四国からの初の副会長誕生であった。

昭和63年5月、第30回JARL総会が香川県香川郡香川町のマツノイパレスで開催された。この年4月、本州と四国をつないだ「瀬戸大橋」が開通した。「本来四国でのJARL総会は57年に開かれる番になっていたが、瀬戸大橋の完成が迫っていたため、この年まで延期してもらった」と稲毛さんは説明している。瀬戸大橋開通を記念して3月20日には「瀬戸大橋博’88・坂出」「瀬戸大橋博’88・岡山」が開幕した。両会場にはそれぞれアマチュア無線記念局が設けられ、原昌三(JA1AN)JARL会長や稲毛・四国地方本部長は、あわただしく両記念局の開局式に出席した。

JARL第30回通常総会(瀬戸大橋総会)の記念局のテープカット。中央は原昌三JARL会長、右が稲毛さん。

稲毛さんは総会に際し周到な準備を行なった。総会を成功させるためには100数十名の実行委員が必要となる。準備は2年前から始まった。開催に際し、どのようなスケジュールで、どのように運営し、各種表彰対象者をどう選び、どのように表彰するか、記念品はどのような基準で選ぶのか、細目にわたって検討する必要があった。そこで、稲毛さんは過去の全総会の詳細なデータを集めた。これらのデータは瀬戸大橋総会の記録とともに、「JARL30回 瀬戸大橋総会記念誌」としてまとめられた。

この記念誌もまた、その後の総会開催の地方本部にとっては貴重な参考となった。ついで、四国で行なわれた総会は、平成11年5月に松山市の愛媛県県民文化会館で開かれた第41回総会であった。この時も同様に立派な記念誌を発行した。稲毛さんは、JARL総会について「開催準備は大変な労力であるが、準備を通じてJARL会員の結束力が強まる。また、2000名前後のハムが全国から集まるため、開催地の地域経済にも少なからず貢献効果がある。そのために、全力をあげて準備をすることが大事である」という。