「電波に雑音が乗って飛んでくる。その雑音の中に何か聞こえる信号がある。電波を捕らえ、雑音の中から信号や音声を取り出して判読することにのめりこみました。」と、井波さんはアマチュア無線のとりこになった半生を振り返る。大正13年(1924年)、井波さんは当時の福岡県浮羽郡竹野村の約400年の古い歴史をもつ古刹(古い寺)の分家に生まれた。

昭和12年(1937年)、12才の時、県立浮羽中学(旧制)に入学。お寺にあったラジオに興味を持ち、当時、発行されていた雑誌「無線と実験」をむさぼり読む。ある時、ラジオが壊れ、井波さんは一人で修理して技術力に自信を持つ。中学2年の夏休み、井波さんは宿題であった「自由工作」に思いきってラジオ製作に挑戦する。

井波さんの中学生時代。無性にハム(アマチュア無線家)になりたかったが、果たせなかった。

この時、自作した短波受信機でアマチュア無線というものを知る。「短波実験局の免許を持つ大西丈夫(J5CW)さんや、木村登(J5CY)さん、堀野治助(J4CT)さんが楽しそうに話をされている。どのような機械で話をしているのかをどうしても知りたくなり、むしょうに訪ねたかったですね。」と、井波さんは言う。当時の日本ではアマチュア無線局の名称での免許はなく、大正11年(1922年)に「私設無線電信無線電話実験局」として免許され、その後、昭和2年に個人として初の短波実験局が許可されている。

昭和14年、中学3年になっていた井波さんは、交信の中で住所を知り、手紙を出して訪問の許可を得て、福岡市のご自宅を訪問した。列車と電車を乗り継いで2時間以上もかかった。お二人とも親切にいろいろなことを教えてくれた。その後は、月1回程度、土曜日や日曜日に訪ねるようになった。

大西さんは、野上工業所で電機関係の仕事をされており、必要な部品は大西さん経由で手にいれることができるようになった。一方、木村さんは九州大学医学部で心電図や脳波の研究をされており、とくに心臓病に関しては権威者の一人と言われていた。両氏からいろいろなことを教えられたが、「アマチュア無線を行なうためには、資格免許が必要」といわれ、勉強しようと考えた。また、この時、大西さんからは中学を卒業したら無線の学校への進学を助言された。しかし、この頃には国際情勢は刻一刻と悪化の方向をたどっていた。わが国は、すでに中国で戦火を交えていたし、欧州地域の国際関係もギクシャクし始めていた。一部では、アマチュア無線どころではないムードも漂い始めており「無線を始めたら身辺調査される」時代になっていた。

井波さんが16才となった昭和16年(1941年)12月、本格的な世界大戦にわが国も突入していった。同時に、アマチュア無線局は政府により閉局される。アマチュア無線への夢を持ちながらも、井波さんは昭和17年に浮羽中学を卒業。迷うことなく当時は官立であった無線電信講習所(現在の電気通信大学)に入学する。これで無線従事者の道は実現することになる。