井波さんは「東京や大阪のアマチュア無線の歴史は語られ、また、いろいろと書かれている。しかし、九州については語られることはない」との不満を持つ。大正15年、JARLが設立されてから、第2次世界大戦が始まるまで、さらに、戦後のアマチュア無線再開の過程では、九州のハムの活躍の姿は見えにくい。

しかし、大西さんや木村さんのほか、すでに、鹿児島では堀口文雄(J5CC)さん、久留米市では能登原新(J5CJ)茂(J5DH)さん兄弟らが電波を出していた。JARLの発足に加わったのは東京地区26名、大阪地区9名と、名古屋地区と、上海の各1名であった。もちろん,免許制度ができていなかったため、アンカバー局(免許を持たない不法局)がメンバーの中心であった。そのなかに、九州地区はひとりも加わっていない。

わが国のアマチュア無線免許第1号は昭和2年(1927年)9月10日に許可された兵庫県の草間貫吉(JXAX)さん、東京の仙波猛(JXBX)さんら8名だった。当時は、短波私設無線電信無線電話実験局の名称の免許であるが、そこにも九州在住の人の名はない。その後、昭和3年10月にコールサインの改定が行なわれた。日本を示すJに次いで、国内の地域を表わす1から9までの数字が加わった。例えば、草間さんはJXAXからJ3CB、仙波さんはJXBXからJ1DAへと改変された。

昭和2年9月に個人として私設無線電信無線電話実験局の免許を受けた人たち。

施 設 者 装 置 場 所 呼出符号 波長 電力 種別
草間 貫吉 兵庫県武庫郡御影町字平野 信 JXAX
話 草間貫吉
38 m 10 W
仙波  猛 東京府北豊島郡巣鴨町 JXBX 38 m 4 W
詠村  昇 東京府荏原郡荏原町字中延 JXCX 38 m 2 W
阿久澤四郎 前橋市堅町 JXDX 38 m 2 W
堀北 治夫 東京市芝区新銭座町 JXEX 38 m 4 W
角  百喜 東京市豊多摩郡字澁谷 JXFX 38 m 4 W
關  俊夫 千葉県千葉郡都賀作草部綿打 JXGX 38 m 4 W
竹内彦太郎 東京府北豊島郡池袋字地領 JXHX 38 m 4 W

 

この改変は官報で告示されたが、同時にこの時点での官設無線電信無線電話実験局(大学、高等工業などの教育施設、逓信省の講習所)、私設無線電信無線電話実験局(民間企業や個人)のリストも掲示されている。官設実験局43局のうちJ5エリアの九州が11局を占めているものの、私設実験局38局にはJ5局はゼロである。発足したJARLは、昭和6年4月に初の全国大会を名古屋で開催、30数名が出席したが、その時の出席者にもJ5の会員は見当たらない。

JARLは、昭和51年に設立50周年を記念して「アマチュア無線のあゆみ(日本アマチュア連盟50年史)」を発刊している。わが国のアマチュア無線の公式的な歴史書とも言うべきものであるが、その中に初めてJ5局が登場するのが昭和8年末のWAC(ワック=ワークド・オール・コンティネンツ)メンバーとしての3名である。世界6大陸と交信したハムに与えられるWACは昭和4年に制定されたが、この時点までに32名が達成しており、その他のメンバーは東京17名、大阪9名、名古屋3名となっている。

無線電信講習所時代の井波さん。

次いで、昭和9年(1934年)3月21日の函館大火での記録がある。この時の大火では函館市の約90%が焼失し、北海道と本州を結ぶ海底電線の中継所も被害を受け、東京・落石無電局との交信のみが情報インフラの役割を果たすこととなった。この時、北海道庁の依頼を受けて札幌市在住の田母上栄(J7CG)さんが東京警視庁(J1AB)や埼玉県庁(J1AD)とのパイプ役として活躍した。田母上さんは約3日間非常通信を行なったが「QRM(混信)があると、堀口文雄さん、河野正一(J3CX)さんが注意するなど協力してくれた。」という。当時、堀口さんは東大医学部の学生として在京していたと推定されている。そして、この年のアマチュア無線局の地域別局数を見ると、JARL会員163名のなかに、7名のJ5局が加わっている。

ここまで、わかってくると、九州のアマチュア無線の歴史を知る手がかりは絞りやすくなる。[1]JARL発足までに九州にはアンカバー局はなかったのか、[2]もし、あったとしたらJARLの発足にどうして参加しなかったのか、[3]誰がいつ頃、九州で初の免許取得をしたのか、[4]最初のJARL加入は誰がいつ頃だったのか、の4点である。もっとも、仮に、アンカバー局があったとしても、JARLの発足を九州では知らなかった可能性もある。