今、井波さんは精力的に「九州のアマ無線史」の発掘に取り組み始めている。これまで長年にわたって集めて来られた膨大な書籍、メモ類では、海外発行のものにいたるまで目を通され、関係のありそうなOM(年配のハム)の方が健在だと知ると関東、関西にまで電話をされ、これまで伝わっていなかった戦前や戦後昭和20年代の状況を聞き出した。

井波さんの人柄と、かってJARLの要職として活躍された時代に築き上げた方々との交流が生き、皆が親切に協力されている。ただ、見つかった資料も断片的なものが多く、歴史として前後関係が見つけにくいものが多い。また、太平洋戦争という時代を断絶させた大きな出来事も障害になっている。井波さんもそうであったが兵役に取られた方も多く、その中には亡くなられた方も少なくない。

さらに、無事に生き延びたものの、生死に直面したり、過去になかった人生観を変転させた経験からアマチュア無線から遠ざかった方も少なくない。戦前のハムの方々が戦後もそのまま再開されていたならば、もう少し、歴史を調べる作業は楽だろうとうらんだ。しかし、推測は避けて、事実を積み重ねてまとめていこうと考える井波さんの意向に沿って、この物語を作っていきたい。

最初に戦前の九州のハムのリストを掲げておきたい。J5CBの関伊吉さん以下、J5DIの桑原久善さんまでの26名のリストである。この時代、J5AやJ5Bのプリフィックスは、昭和3(1928)年10月19日の官報告示(施行は4年1日)のコールサイン改変時に官設実験局に割り当てられたため、個人のアマチュア無線家はJ5Cからのスタートとなった。当初、J5CA局があったのか、あったとすれば誰であったかが見つからなかったが、11月12日(平成13年)になって、安永卯一郎さんだったことが判明した。元JARL資料室に勤務しておられた藤室衛(JA1FC)さんが苦労して作られた戦前のハムのリストを、庄野久男(JA1AA)さんが所有しており、すぐに送ってこられた。井波さんが調べられたリストにやっと一名を追加することができた。

戦前の九州のアマチュア無線局(掌握できた局のみ)

注)○印は、当時のJARL会員(確認できた人のみ)

それでは、いつ頃、免許を取得したかを調べてみると、J5CCの堀口文雄さんが昭和5年12月に試験に合格し、翌6年春に開局したことがはっきりしている。また、J5CBの関伊吉さんについては再免許の年月が昭和7年10月27日と昭和8年10月25日の2説のデータがあるが、いずれにしてもそれ以前に最初の免許を取得したことになる。

プリフィックス(アマチュア局の所在地域を示す符号)の後ろに続くサフィックスのアルファベットは、必ずしも試験や、局免許(予備免許、本免許)の順番と一致していない。CEの岡田さんは昭和5年5月3日の許可の記録がある。また、コールサインはない(当時は短波受信局のみの許可もあった)ものの、吉村昇吉さんの許可日も昭和5年10月21日である。さらに、CKの日本放送協会は1.775MHz(3W出力)、28.4MHz(1W出力)で、昭和10年に許可されているが、その後のCLの一丸さん、CMの白尾さんと、コールサインのない山田直記さんらは昭和9年の許可である。

やはり、コールサインのない永松啓祐さんは昭和10年8月3日に局を廃止という記録がある。CJの能登原新さんの昭和8年もはっきりしている。新さんは明治43年生まれであり、DHの茂さん(大正9年生まれ)とご兄弟である。なお、表の他に、先に触れた吉村、永松、山田の3氏が受信局として許可されていることがはっきりしている。