このように、調査を進めていくと、昭和9年末までに九州にはアマチュア局が名前がはっきりしている方だけでも13局誕生したことになる。廃局してしまった局を含めると、さらに2局程度があった可能性もある。関東、関西地区と比較すると、発祥は3年程度遅かった可能性はあるが、昭和9年までに10数局があったということは、決して、他の地域に比較して遅れを取ったわけではないことがわかる。なかでも堀口さんは全国でもトップクラスの活躍をした。しかも、堀口さんだけはいくつかのデータを残してくれていた。堀口さんは、旧制高等学校1年で許可を受けてすぐの昭和6年(1931年)3月15日に、すでに発足していたJARLに加盟する。

JARLは、この年の4月に第1回の全国総会を名古屋で開催したが、先に触れたようにこの時には九州のハム達は出席していない。堀口さんは若年故に出席を遠慮したともいえるし、名古屋は九州からは遠い。出席しなかった理由にはそういう面もあったと思われる。ただし、堀口さんは積極的な活動振りをJARLニウス(当時はそう名付けられていたが、以下ニュースと記す)に投稿する。

この年の5月には、14MHzで米国と交信した記録をJARLニュースに報告している。JARLニュースは、昭和4年6月10日に第1号が関西で発行された。梶井謙一(J3CC)さんが中心となっての編集であり、B5版サイズの謄写版刷りの機関紙であった。しばらくは近畿での発行が続いたが、このため、中身は近畿のJA3の情報が多くなるのはやむをえなかった。

昭和9年9月のJARLニュースには九州・J5局の消息が並んでいる。囲みの中が5局の投稿。

このニュースを太平洋戦争開始前に廃刊されるまで調べてみると、結局、九州支部は発足することなく、関東、関西、東海、東北の4支部のみが誕生している。関西支部には中国、四国、九州が含まれ、また、東北には北海道が含まれたためである。したがって、関西支部の消息欄にはしばしば堀口さんの他、緒方さん、岡田さん、栗原さん、能登原さん、一丸さん、白尾さん、堀部さんなどの近況が掲載されている。昭和10年代に入ると、九州のハム達はJARLのコンテストやQSOパーティなどで入賞し始める。

戦前の日本アマチュア局の実数(昭和15年12月)

昭和15年12月時点のアマチュア無線局実数。九州は、沖縄を含めて18局となっている

しかし、昭和16年の12月、全国のハム達と同様、愛用の無線機は太平洋戦争勃発とともに封印される。その後は九州に限らずハムの消息を知る手がかりは極端に少なくなっていく。ちなみに、この年の12月には全国(韓国、台湾、満州、樺太を含む)のアマチュア局数は267局、九州は18局、約7%を占めていた。東海(東海・北陸・長野)と東北(6県)は、ともに23局であった。

戦時中、悲しい出来事がおきる。多くのハムが命を落としたことである。中でも、若手ハムとして活躍した堀口さんの死は多くの仲間の涙を誘った。ここで、堀口さんの短かった生涯をなぞってみたい。堀口さんは、昭和6年に開局した後、恵まれた体力を生かして、毎晩、寝る間も惜しんで無線機に向かう。昭和7年にJARLニュースに、6大陸と交信する「WAC」に挑戦し、残っている欧州とアフリカの2大陸を狙っての必死の奮闘の記録が寄せられている。

その抜粋を紹介しよう。堀口さんは、まず、欧州をねらい毎晩キーに向かう情景を報告し「上から下へと探すが例によって、何の応答もありません。一カ所だけビートが聞こえたような気がしましたので、ぐるぐるダイヤルを回し、J5とたたくとDEときて、次の局名がやっとわかった。」堀口さんは興奮の様子を次のように記している。「めまいを感じ、からだ中の血が一時に逆流し、頭がくらくらし無意識にキーをたたくが、指が、腕が動かない。後はしどろもどろだった。」無事、交信できたか不安であったが、1カ月後、堀口さんはON4JCのQSLカードを受け取る。欧州・ベルギーとの交信成功の便りでもあった。