堀口さんは、アマチュア無線にのめりこみながらも東大医学部に進学する。昭和7年9月に受験で上京するとの報告がJARLニュースに掲載されているが、その後は医師を目指す勉強に集中したためか、東京時代には堀口さんの消息は少なくなる。再び、堀口さんが脚光を浴びるのは昭和14年3月に、わが国ハムとして初のWAZ(ワークド・オール・ゾーン)を完成させた時である。世界の40地域と交信することを競う競技であるが、戦前は世界でも3名しかいない栄光の実績である。

軍医時代の堀口文雄さん

東大医学部を卒業した年、鹿児島に帰省した堀口さんはARRL(米国アマチュア無線連盟)主催の国際コンテストに参加して達成。この快挙は3月28日の大阪毎日新聞に大きく掲載された。その中で、堀口さんは第七高等学校の1年でハムになったと紹介されている。太平洋戦争では軍医として兵役に就いた堀口さんはビルマで戦死された。戦後、日本を訪ねてきた海外のハム達や、昭和27年のアマチュア無線再開後に交信してきた海外のハム達の多くは、堀口さんの消息を尋ねたという。それだけ、国際的に活躍したハムであり、海外では知られた存在であった。

昭和28年、戦後の混乱期、経済低迷期から脱し、また、アマチュア無線の再開が行なわれて一年が経ったこの年、堀口さんの弟さんの正晴さんがJARLニュースに「J5CC追想記」を寄せている。それによると、堀口さんが電気に興味を持ったのが小学生時代。中学2年の頃からラジオづくりに熱中し、4年の頃には短波受信機を組み立て、バリコンを改造したり、ボビンコイルを作ったりして完成。「短波放送でハワイアンギターを始めて聞き、その楽器がわからず首をひねった」と、書いている。そして、当然のごとく次は送信機づくり。当時の支那、ソ連、豪州、米国西海岸などと交信し、QSLカードを集めた。正晴さんは「通信機づくりと交信とどちらが興味深いか不思議でしたが、恐らく両方だったでしょう」と思い出を語る。

中学4年で短波受信機を作り、受信に熱中したのが昭和3年。その後、送信機を作り交信を始めたのはいつか。昭和5年の免許取得、6年の開局までどうしていたのかが、興味深い。アンカバー(無許可交信)を行なったのかを詮索するつもりはないが、九州のアマチュア無線のレベルを知る上でぜひ知りたいからである。先に、触れたが、大阪や東京では大正13、4年にアンカバー通信が始まっている。正晴さんは、海外と交信し、QSLカードを集めた頃を「この頃がJ2WVの頃でありまして、彼の短波生活の前期というべき時代であります。高等学校に進んでからはJ5CCとなり、彼の活動はいよいよ本格的、激烈さを帯びた」と、思い出を語る。

昭和7年9月のJARLニュースには、堀口さんがベルギーとの交信を投稿している。

わが国のコールサインはこの連載の第2回で説明している通り、昭和2年に個人にエリアナンバーなしの形で初めて割り当てられ、昭和3年にエリアナンバーが取り入れられ、九州はJ5となった。堀口さんのJ5CCはその後に割り当てられたものであり、昭和3年以前はもちろん、それ以後でも九州で「J2」のプリフィックスはありえない。

大正15年の頃、近畿では笠原さん、谷川さんが3AA、3WWを、東京では仙波さんが1TSを名乗っていた。いずれもアンカバーのコールサインであった。堀口さんがそれを受信し、J2WVを名乗ったことが考えられる。「J5CCとなって本格的に活動が激烈となった」という表現も気になる。「正式に許可を得て、正々堂々活動を始めた」ということを意味していないか。そうなると、九州に堀口さんより早く電波を出した人がいる可能性もあるが、現時点で記録としてはっきりしているのは堀口さんのアンカバー局J2WVが九州で最初ということになる。早ければ昭和3年、遅くとも昭和5年までには九州で初の短波が空を飛んだといえないか。