もうしばらく、堀口さんの活躍振りを続けたい。どうやら、九州の戦前のアマチュア無線の歴史は、堀口さんの歴史が代表していると思えるからである。堀口さんは高校時代、日夜、アマチュア無線に没頭しながら東大医学部に入学するほどの秀才であるが、同時に体力的にも疲れを知らない青年であったらしい。弟さんの正晴さんは「彼の特徴ある風貌」と記しているが、残っている写真を見ると確かに太い眉から意思の強さ、おう盛な精神力、目的に猛進する体力を感じさせる。正晴さんも「はちきれるような短駆に短剣を吊り、朝風に青錆の出た帽章を戴き・・・・」「彼の一生がそうであったように、太く短く精力的な印象を与えました」と形容している。

余談ではあるが、正晴さんが寄稿したJARLニュースの同じ号に、この年、昭和和28年6月に九州で起こった水害に対する九州支部の活動報告が寄せられ、また、同じページにはJARL本部の九州支部(当時)へのお見舞い、九州支部からJARL本部へのお礼が掲載されている。井波さんは、この活動報告、お礼の文章に携わっている。このため、正晴さんの文章も印象深く読んだという。

堀口さんは、旧制高校時代にCW(電信)でWACを取り、大学に進んでからPhone(電話)でWACを取得した。海外との交信が増えるのに伴い、日系米人の二世や英国の極東艦隊の通信士が訪ねてきたりして、賑やかだったらしい。昭和14年に大学を卒業し、7月に海軍軍医中尉に任官する。先に触れたWAZを達成したのは卒業-任官の間の3月である。3月24日から昼夜交信を始めた堀口さんは、26日に残っていたチベットと交信する。大阪毎日新聞は、その模様を次のように紹介している。「チベットにただ一つしかない私設無線局である英国人フォックス氏が雲南省混明の局と交信中をつきとめて、朝10時から20分間にわたって通信に成功」。

米軍哨戒用に船に積み込まれた36式無線電話機 電波実験社発行「日本アマチュア無線外史」より

軍医となった堀口さんは、送受信機を装置したトランクを作り、中支にもって行ったりした。国内の土浦航空隊勤務時代は少年航空兵達に無線の講義をし、南方勤務時代は野球に熱中したという。戦後、昭和20年の暮に土浦の旧海軍病院の物置の中に残されていた堀口さんの送信機を見つけた人がいる。水戸市に復員した石田太一郎(後のJA1KF)さんであり、21年の2月ごろ、弟の正次(後のJA1AAK)さんと2人でその送信機を使いアンカバー交信をしたという。

堀口さんは昭和17年無線技術力を認められ、艦船勤務から平塚の技術研究所勤務となる。研究内容は軍事機密であり、詳細は不明であるが、アイソトープの研究を手がけていたらしい。アイソトープは、同位元素と呼ばれ、原子核を構成する陽子と中性子のうち、陽子数が同じでありながら異なる元素を意味し、例えば水素、重水素、三重水素などをいう。当時の日本では何ヵ所かで必死に原子爆弾の開発研究が行なわれており、アイソトープの研究はそれと深い関係を持つが、堀口さんの研究もそうだったとは断定できない。

堀口さんは「無線工学の知識が役立つ」と、猛然と研究開発に取り組んでいたが、昭和18年(1943年)10月に「戦地に行ってもらえるか」の電話に気軽に承諾の返事をした。翌日、研究主任の花田中佐に呼ばれ「研究中に人事の交替は困る。誰でもいい他の軍医科士官で務まるではないか。一言連絡があれば済んだものを」と叱責される。第13警備隊軍医長としてビルマに赴任したが、昭和20年、インパール作戦の失敗から敗北の転戦が始まり、8月8日正午に司令官以下35名とともに玉砕した。ビルマのシッタン河畔であった。和28年、JARLは、堀口さんの功績を記念して、最短時間でWACを達成したハムに「J5CCカップ」を送ることを決めた。なお、その記録時間は、当時の1時間30分から、最近では5分にまで縮まっている。

堀口さんのQSLカード。「J5CC」 「WAC」の文字が印刷されている。JARL発行「アマチュア無線のあゆみ」より