再び、井波さんの無線電信講習所の話しに戻る。井波さんが同講習所入学の道を選んだのは、無線通信に強い興味を持っていたのに加え、講習所が官立であり、卒業後に逓信省関係に就職すれば、授業料が免除されるということも理由であった。さらに、何人かの人たちが「将来は無線通信の時代になる。技術を身につけておれば働き口は心配ない」とも勧めてくれた。旧制浮羽中学時代、卒業が近づくにしたがって、いわゆる「ラジオ少年」仲間は増えていったが、それぞれ、成績の良い生徒は陸軍士官学校や海軍兵学校あるいは予科連へと進んでいった。卒業の昭和17年の春は、まだ、日本の戦況は有利な頃であった。それだけに、当時の旧制中学の学生はこぞって「軍人となり、お国のお役に立ちたい」との希望にあふれていた。

井波さんの東京での学生生活が始まった。当時は私鉄に対して省線電車(鉄道省運営電車)と呼ばれていた山手線の大塚に下宿し、目黒まで電車通学をした。期待に胸を膨らませての学生生活であった。ラジオの概念的な技術知識はあったが、無線通信の理論、船舶通信士の仕組みなど、レベルの高い技術や関連した学科もあり、井波さんは「比較的熱心に勉強したと思う」という。

講習所は本来は3年制であったが、この頃には2年間で無線従事者の資格を取り、後は実地で勉強することに変更となっており、繰上げ卒業で昭和19(1944)年に卒業、肩書きは「逓信省通信書記補」となる。

卒業までのわずか2年の間に戦況は様変わりしていた。経済力、産業技術力などの面で劣っていた日本の国力の差が徐々に、戦場で出始めていた。昭和18年2月には、ガダルカナル島の撤退、6月にはアッツ島の玉砕があるなど、日本軍の南方各地での敗退が始まっていた。井波さんが配属されたのは海軍第一海上護衛隊。軍人ではなく「軍属(軍隊に専従する民間人)としての配属だったと。」という。昭和19年7月、南方の戦況悪化に伴い満州に駐屯していた将兵をフィリピンのレイテ作戦に移送することになり、門司に集結したこれら部隊を輸送船団で輸送する勤務についた。

日本軍は、フィリピンで米海軍を迎撃する「捷1号作戦」をこの年の7月下旬に策定しており、それに備えての輸送であった。井波さんは船団の指揮班が乗務する「満州丸」に配属され、デッキにある無線室で、3人の交代制勤務についた。日本軍内の無線による連絡のほか、米軍の無線を傍受し、潜水艦情報を僚船に数字の暗号で知らせていた。このため、暗号への翻訳など時間がかかリ、多忙だった。輸送船団は途中、台湾の高雄に寄港し、フィリピンに向かうことになっていた。すでに、米軍の潜水艦は日本近海まで出没、輸送船が魚雷攻撃されるケースも増えていた。

「魚雷攻撃を避け、船団はジグザグに進むためにとにかく時間がかかってしかたなかった」と、井波さんは当時を語る。高雄を出発した船団は9月9日の夜明けにバシー海峡にさしかかった所で魚雷攻撃を受け、満州丸は沈没。バシー海峡は日本軍にとっては「魔の海峡」といわれ、しかも、明け方が危ないといわれていた。日中は米軍潜水艦の存在や魚雷攻撃は発見しやすい。このため、敵の潜水艦も昼間は、島影などに浮上していて、明け方に攻撃してくるケースがほとんどであった。「私達も、夜間を警戒し、この日も潜水艦の所在を真剣に探知しようと努力していた。攻撃されたのは潜水艦が近くにいることを探知し、僚船に連絡している時であった。」

当然のことながら井波さんはこの時の状況は忘れられないという。魚雷攻撃を受け、沈み始めた船から海に飛び込んだが、突然であったため救命胴衣を着ける暇もなく、また、浮き袋も見つけられなかった。幸い、流れてきた木片を見つけ「6時間以上も浮かんでいました。サメが多いと聞かされていたが、事実、サメに襲われなくなった方も周囲におられ、いつ現れるかわからない米軍機からの機銃掃射とサメに怯えていました」という。そして、駆逐艦に救助されるが、その時には疲れから握力もなくなり、気力もなくなり縄梯子を登るのもやっとであった。「無線室がデッキにあったため、攻撃を受けてもすぐに海に飛び込んだというか、投げ出されたため助かったような気がする」と、現在があることをその後ずっと感謝している。

バシー海峡の地図

井波さんが遭難したバシー海峡。当時、「魔の海峡」と恐れられていた