駆逐艦でフィリピンの南サン・フェルナンドに送られ、そこからマニラまでの約300Kmを砂糖稷(きび)を運搬するトロッコで移動した。マニラに着いてしばらくたった15日に「すぐ日本に戻れ」との指示を受ける。日本へと戻る途中、高雄に着くと徴兵検査を受けろとの指示があり、さらに「海軍での仕事がなくなったので陸軍に移ってくれ」との命令を受ける。後でわかったが、攻撃を受けつづけて軍船はもちろん、軍が借り上げていた民間船も足りなくなっていた。通信を必要とする船もなくなっていたためだった。

国内に戻ると陸軍中部34部隊に入隊、中部軍司令部通信の大阪・堺市・鳳(おおとり)の信太山練兵場にあった通信サイトの勤務となった。そこで、父の死を知らされた。「父も昭和19年の9月10日にセレベス島の近くにあるビクア島で亡くなっていたのである。私が遭難した日の翌日であったことに不思議を感じた。人の死が日常茶飯事となっていたとはいえ、私をここまで育ててくれた父の姿を再び見ることができないと思うとつらかった」という。

昭和20年(1945年)8月15日の終戦は通信サイトで知った。間もなく除隊になり福岡県の自宅に戻ったが、そこには田地があり「畑仕事をしながら1年余りをぼ~として過ごしました。そのため、戦後の食糧難の時代にも食べることには苦労はしませんでした」という。昭和22年、NHK(日本放送協会)が職員を募集していることを知り、受験して採用される。熊本中央放送局・福岡放送局第一技術部勤務、放送技術に従事。「職を得た上に、放送は憧れの職場であっただけにうれしかった」と、54年前を振り返る。

現在では考えられないが、当時のNHKは米国・VOA(ボイス・オブ・アメリカ)放送の中継業務もさせられていた。米国本国からの短波放送を受信し、円盤レコードに録音し、中波に変換して国内向けに送信していた。23年になると米軍はFEN(ファー・イースト・ネツトワーク)放送を開始することになり,佐賀県の高木瀬町に送信所が置かれることになった。

その送信所には、米国製の最新鋭の送信機が入るという話が伝わってきた。親しくなった米軍関係者に紹介してもらい、放送機器を手がけていた東芝の社員と一緒に見学させてもらった。米国・RCAの送信機は小型化され、取扱説明書も素晴らしく良くできていた。米国人はおおらかで陽気な人が多かった。親しくなると自宅に呼んでくれた。その中の一人が空軍少佐でハムのヘンリー・S・ロウ(JA7AW/KH6AW)さんだった。知り合ったきっかけは彼の車に書かれていたコールサインであった。「ハムか」と聞いたらそうだというので「子供の頃ハムになりたかったが、戦争が近づき開設できなかった。非常に残念だった」といったら,「免許が再開されたらぜひ取ったら良い。手伝うよ」と、激励してくれた。

井波さんが米国のハムと親しくなっていた頃、東京では戦前のハム達が必死になってアマチュア無線の再開に向けての活動を開始していた。戦時中に解散されていたJARLは昭和21年8月に再発足し、22年の秋頃になると九州から21名のJARL会員が誕生している。この年の10月のJARLニュースには、全国の会員リストが掲載されている。名前の羅列になるが、この読み物に歴史としての意義をもたせるために、それを転載しておきたい。

九州に戦後誕生した無線クラブを紹介したJARLニュース。

杉山儀太郎、村田謙一、真矢久、林田公男、福田道生、武谷勝次、宇田功、横溝秀雄、城島義人、上野匡康、秋吉康彦、三井信雄、吉村厚、王丸信二、秀島照行、蓑田良和、出田喜一郎、小川善次郎、辻米保、伊藤修行、清末順一の各氏である。これらのメンバーの多くは、九州地区で活動を始めた。昭和24(1949)年5月のJARLニュースは、JARL筑後クラブ、JARL長崎クラブ、大分無線同好会、島原無線研究会、鹿児島アマチュアラジオクラブの5つの集まりができたことを紹介している。