不思議なことに、再発足したJARLの会員にも、また、九州各地のクラブの代表者にも本来リーダー役であるべき戦前のハムがほとんど見当たらない。戦争を境として新しいアマチュア無線マニアが誕生した。どうやら、このメンバーを含めて、当時は盛んにアンカバー交信をやったらしい。それには理由があった。同じ敗戦国の日本とドイツは戦後にアマチュア無線の再開は止められていた。ドイツでは再開を懇願して、多くのかってのハムが堂々とアンカバー交信を行なった。時には、刑務所に入れられながらの抵抗であった。

ドイツのアンカバー局は結束した。「われわれはアメリカに反抗して運用しているのではない。ハムとして運用しているのである。」といい、さらに「アンカバー局全員のリストを提出し、QSLカードもすべて郵便局の私書箱を通じる。カードの検閲も毎日やって結構」とGHQに折衝した。そこまでの決意にGHQは折れた。「自由にやってくれ。しかし、自分たちで法律規則を作り早く正式な許可を得られるようにして欲しい」と。このニュースは日本を刺激した。JARLそのものはアンカバーを奨励できる立場ではない。各クラブが活発にアンカバー交信して、ドイツのような状態に持っていこうとする暗黙の状況が生まれた。いわば、アマチュア無線再開のための戦術でもあった。

「アマチュア無線のあゆみ」第1巻には、この頃の九州地区のアンカバー局の話題がいくつか掲載されている。昭和22年11月9日、当時JARLの理事であった田母上栄(後J2PS)さんはGHQのCCS(民間通信局)に呼び出され、最近アンカバー局が増えていると注意された。その頃、青森1名、東京2名と並び長崎で1名がアンカバーで摘発されていた。もう一つはアンカバーと間違えられた話である。昭和24年の3月頃、熊本の安藤さん宅がGHQからの指令を受けた熊本逓信局調査課の手入れを受ける。実際は安藤さんは電波を出したことはなかったが、運悪く旧陸軍が使用した4号無線機を所持しており、申し開きに時間がかかったという。

再開されたアマチュア無線の国家試験合格者を伝えるJARLニュース

しかし、アンカバー戦術にもかかわらず、アマチュア無線の再開は容易に実現されなかった。その実現は昭和26年までかかった。この年の6月第1回のアマチュア無線技士国家試験が実施され、ようやくわが国のアマチュア無線が再開された。この時、全国で1級47名、2級59名が合格した。九州では1級を7名が受験し合格者なし、2級は10名が受験し合格者は4名であった。熊本で板橋康博さん、堀登喜吉さん、福岡で三浦長栄さん、島田金二さんである。戦後、九州では初のハムの誕生である。

さらに、10月に行なわれた第2回では2級の合格者は全国で48名、うち九州では次の8名が合格している。熊野清美、田川公明、須賀春之助、中村敏、岡崎幸雄、宮原精一郎、中村裕介、朱雀礼介の各氏である。この第2回では1級の受験者が九州であったのかどうかは手元に資料がない。

一方、戦時中に解散状態であったJARL(日本アマチュア無線連盟)は、21年の8月に再発足していたが、28年に各地区の電波監理局との交渉に当たるためには電波監理局ごとに支部を作るのが良策いと考え、各地に働きかけ4月には九州地区にも支部が発足する。それまで、関東、関西、東北、東海の四支部が発足していたが、この年には残っていた6支部が誕生し、10支部体制が整った。それ以前、九州各地に同好者の集まりができていたことは触れたが、井波さんは昭和26年8月に結成された「JARL熊本クラブ」の機関紙を入手している。

「JARL熊本クラブ」の機関誌。

月刊でB5判4ページの謄写版刷りの当時としては立派なものであり、現在では貴重な資料でもある。同クラブの会員数は20数名。戦前のハムでは立山光輝(J5CQ)さん、堀部清(J5CD)さんが加わっている。毎月ミーティングを開催することにしているが、第1回の2級合格者2名を出した後に結成されたクラブだけに「10月の試験には全員合格しよう」の決意が掲載されており、機関紙の隅々まで意欲に満ちた活気が溢れている。