「JARL熊本クラブ」の機関紙第1号に太平洋戦争が始まった後にも交信した立山(J5CQ)さんの話が載っている。昭和16年12月8日、東京逓信局長は開戦にともない送信を禁止する通達を出し、次いで13日には受信も禁止する命令を出す。全国各地には電報で命令が発せられたことになっているが、立山さんは「12月30日に禁止され封印された。したがって8日の開戦以後も海外のアマチュア連は平常と何の変わりもなく、いとも丁寧に応対してくれた」と、クラブ員に話している。これも、わが国のアマチュア無線史にとって新たな発見といえそうだ。

「電波が国民のものに戻ってきた」JARLの再発足、アマチュア無線再開に井波さんは興奮した。昭和14(1939)年、14才の時、アマチュア無線にあこがれてから13年が経っていた。井波さんは戦前、無線電信講習所時代に1級通信士、1級無線技士の資格を取得しており、他の多くの資格者と同様にこの資格でアマチュア無線ができると思っていた。

ところが昭和26年5月の告示で制度が変わった。九州では1級アマチュア無線技士が1回、2回の試験では誕生していない。相当問題が難しいのではと思い、井波さんは第2回を受験して2級に合格した宮原さんに聞く。宮原さんは「難しかった」と答える。そこで、不合格となる恥ずかしさを知られたくないため、井波さんは27年10月に熊本で受験する。受験場で当時、九州電波監理局・古賀監視部技術課長の大西成美(JA6FB)さんを見つける。「今日は試験官ですね。ご苦労さまです」と挨拶すると、大西さんは「実は私も受験です」と答えられたのに驚ろかされたという。

1回で合格した井波さんは28年の1月16日に第1級アマチュア無線技士の資格を取得し、3月27日にJA6AV局を開設している。当時は資格を取得したものの申請書が不充分であったり、水晶発振子が入手できなかったり、さらに経済的に部品が求められなかったりの理由からすぐに開局できないケースも少なくなかった。その点、井波さんは恵まれていた。

開局したときの井波さんのシャック。

米軍の爆撃機B29に搭載されていた送信機ART‐13に電源を製作して完成させた。受信機もハーマーランドのスーパープロを米国人の友人の手助けを受けて設置した。どうしても間に合わなかった水晶は大西さんがFT243型水晶振動子を、新設検査に間に合うように削ってくれた。その後の送受信機の製作でも板付にあった米軍基地の存在が大きかった。東京には「秋葉原」大阪には「日本橋」というジャンク街があり、必要な部品や機材は比較的自由に入手できた。そのジャンク街の役割を果たしてくれたのが、この基地であった。米軍の余剰物資が放出されたり、廃品の回収業者からも使用に耐えられる部品、真空管、機材が驚くほど出てきた。

開局に当たって、井波さんが記憶しているもう一つのことは、申請書の書式の複雑さであった。極端に言うと、1つの放送局を立ち上げるような複雑な書類が必要であったからである。放送局勤務の井波さんはこの面でも同僚の助けをもらえた。この面倒な申請書式を書くに当たって「九州のアマチュア局申請者が助けられたのは、東京の庄野久男(J2IB、JA1AA)さんの指導でした」と、井波さんは言う。庄野さんは昭和26年10月の第2回の試験で1級に合格し、翌27年1月28日に開局申請を行った。申請書は2月6日付けで受理され、7月29日に予備免許が与えられた。

申請書の書き方を指南した庄野久男さん。

コールサインでわかるとおり、再開されたアマチュア無線局の第1号であった。庄野さんは、その申請書コピーを積極的に全国に配布し、書式に苦労している人を支援したことで知られている。実は、当時の総理府電波監理総局(昭和25年6月1日~昭和27年7月31日)は、アマチュア無線技士の試験を実施したものの、局の開局免許については方針が決まっていなかった。最終的には当時、日本に進駐していたGHQ(連合国軍総司令部)の意向によって左右されたため、試験合格者がとにかく申請書を次から次に出し、GHQを揺さぶろうとする策を取ったことも事実である。庄野さんはその先兵でもあった。