昭和27年末の九州のハムは9名となった。井波さんは開局してしばらくは仲間内との交信が主であった。その後,交信距離が長くなり、広島の井原達郎(JA4AO)さんと話し、さらに外人との交信も増え始めた。板付基地の米国人とも交信したが、4月5日にはフィリピンの米国人であるロナルド(DU1RS)さん、7日にはボルティア(DU7SV)さんと交信ができた。毎日、勤めから帰ると夜の12時ごろまで無線機と向い合った。6月4日にはハワイの野瀬堅(KH6IJ)との交信にも成功している。野瀬さんとはその後親密な関係がつづいた。

井波さんの最初のQSLカード。

昼間は好きな放送の仕事、夜も好きなアマチュア無線と、井波さんの生活は充実していた。井波さんが局を開設した13日後の4月9日にJARLの九州支部が誕生した。この時の初代支部長には須賀春之助(JA6AF)さんが就任している。その前年である27年12月末の九州地区のアマチュア局数は9局との記録がある。また、昭和27年から34年までの役員には須賀さんと並び大西丈夫(JA6CW)さん、大西成美(JA6FB)さん、村上鶴夫(JA6BE)さんの合計4名が入っている。

アマチュア無線をやろうという夢が実現したこの年は、井波さんにとっては人生の上でも、趣味の上でも波瀾に満ちた年でもあった。まず6月、ハムの力が発揮される大惨事が勃発する。九州大水害である。この水害で戦後再開されて1年足らずのアマチュア無線は大活躍し、世間にその存在を大きく知らすことになる。この時の活躍振りは、アマチュア無線専門雑誌「CQ ham life」の28年9月号に三井信雄(JA6AU)さんが詳細にレポートしている。6月25日からの豪雨は遠賀川、矢部川、筑後川の決壊、白川の土石流災害を引き起こした他、各地で山津波による被害を多発させた。亡くなった人約2000名、家を失ったり、怪我をした人達などを合わせた被災者は133万人に達した。

この時、三井さんは三浦長栄(JA6AS)さん、井波さん、王丸信二(6BB)さん、上野匡康(6BA)さん、西田彰(6AO)さん、清水喜代忠(6AP)さん、岡崎幸雄(6AQ)さんらと連絡を取り、各地の状況をつかむとともに、7087.5KHzでの交信を決め、全国にこの周波数帯使用を遠慮してもらうよう依頼した。その後、村上鶴夫(6BE)さん、出田喜一郎(6AE)さんらとの連絡が取れ、日を追うごとに被害が広がっていることを知った。

三井さんは記している。「各局と相談の上、電波法に基づく非常通信を行なってはどうかとの方向になった。しかし、アマチュア無線再開1年足らずということもあり、関係官庁との交渉は難航した。九州電波監理局長の許可を得て、アマチュア無線で初の非常通信が発令されたのは26日17時5分であった。」被災地区の有線系統はすべて不通となり、国家地方警察のFM超短波が生きており、一部の警察電話、警察無線、鉄道電話がかろうじて通じていた。

非常通信では、中央局1局を決め、中央局の許可なくしてはいっさい電波を出すことを禁じた。中央局は、連絡、活動の上で最適な局を随時選択して決めることにし、この時は熊本の出田さんがその役割を担った。福岡では、三井さんが西福岡警察署、井波さんが北福岡警察署を通して、それぞれ国家警察県本部に情報を仲介する役目を果たし、同時に王丸さんと上野さんがサブの役割を担っていた。

出田さんのシャック。昭和20年代としては立派なものであった。--JARL発行「アマチュア無線のあゆみ」より

このように書き進めると、いかにも整然と通信が行なわれているようであるが、実際にはそれぞれの自宅自体がいつ大水害に流されるかわからない状況下に置かれているケースもあり、また、そうでなくとも停電の恐怖があった。このため、非常用電源を県本部に依頼する一方で、近接局同士は、どちらか一方が送信できるように組み合わせにも配慮した。「三井、井波は同一の電源系統(同じ変電所)であり、これに対して、王丸、上野さんはそれとは別系統の電源であった」と、三井さんは万全の準備をしたと記している。