各局の多くは不眠不休の活躍をした。通信手段の不通の中で住民に頼られているだけに、無理を重ねなければならない面もあった。九州支部長となったばかりの須賀さんもその一人である。6月26日午後10時、三井さんは須賀さんと偶然連絡が取れる。三井さんは福岡県下の状況を報告、須賀さんからは「福岡のハムの奮闘を感謝している」と激励される。その後、「熊本も相当の豪雨であり、川が近くにある。雷もなっているので失礼する」との交信が三井さんとの最後の会話になった。

須賀さんのシャック。このころ九州の支部長だった。JARL発行「アマチュア無線のあゆみ」より

後でわかったことであるが、水害の危機を感じて家族が避難を始める直前まで、東京の福士実(JA1AE)さんに熊本の状況を報告していたという。結局、須賀さん宅は床上浸水の被害を受けたが、同じく床上浸水の被害を受けたハムはすくなくない。さらに、山本宏(6AD)さんのように家屋を全壊流失したハムもいた。

27日、雨も小降りとなったが、逆に被害の状況がわかるにともない、被害の大きさが深刻であることがわかってきた。また、この頃から、国家警察県本部、各新聞社からの協力要請が強まってもきた。この結果、熊本の出田さんが果たしていた非常通信の中央局は、福岡のほうが都合が良いということになり、三井さんと井波さんが引き受けることになる。熊本市が全滅したことも理由の一つであった。新聞社やラジオ局への支援は7月に入っても続いたが、九州電波監理局は7月2日の午後6時20分「他の通信回線も回復したため非常通信を解除して欲しい。連日の奮闘に感謝する」と連絡してきた。九州大水害は、アマチュア無線の社会的な役割を示す絶好の例となった。

中央局を引き受けた井波さんは、この非常通信を振り返って「必ずしも九州地区のハムだけが活動したわけではなかった。東京や関西地区の方々も応援してくれた。また、局が少ない時でもあり、周波数帯も少なかったため、交信はやりやすかった」と指摘する。平成7(1995)年の阪神大震災でも非常通信体制が敷かれたが、混信が多くて困ったことを考えると、大きな違いがあるといえる。

非常通信は郵政大臣に報告の義務がある。報告書作成の役割が井波さんに回ってきた。実は、須賀支部長もNHK熊本放送局に勤めており、勤務場所は異なるとはいえ、同じNHKの上司であリ、井波さん以上に責任ある立場にあり、多忙であった。加えて、先に触れたように床上浸水の被害にあい、個人生活でも大変な事態にあった。報告書作成はその支部長からの依頼だった。7月6日に提出された報告書は、わが国の非常通信報告の第1号であった。

九州水害では勤務先のNHK自身が報道の使命に追われ、井波さんはNHKの業務とアマチュア無線による非常通信という多忙な2役を果たした。この水害での活躍を通じて、井波さんは「優秀なハムがたくさんおられることを知り、感激した」という。水害による被害が一段落しつつある頃、井波さんに転職の話が持ち込まれる。わが国のラジオ放送は、戦前、戦後を通じてNHK1局のみであったが、民間ラジオ放送も許可され昭和26年9月1日に名古屋で中部日本放送、大阪で新日本放送(現毎日放送)が誕生した。

その後、全国各地で民間ラジオ放送開局ブームが始まる。それにともない、放送関係の技術者が各地で不足してきた。福岡ではラジオ九州が昭和26年に誕生していたが、九州朝日放送は28年12月25日のクリスマスに、試験電波を発射することを目標に放送の準備を急いでいた。井波さんが入社したのは12月12日。「あと13日で試験放送という時点でのあわただしい転職であった。設備を使いこなせないままの開局だった」と振り返る。

九州朝日放送の副調整室で仕事をする井波さん。

ここで、三井さんについて触れておく必要がある。井波さんは戦後しばらくして三井さんを知るが「その才能に舌を巻いた」という。わが国でテレビジョン放送が始まったのは昭和28(1953)年2月であるが、昭和24年、高校生であった三井さんは「これからはテレビジョンの時代でありますから、その勉強が必要です」と話していた。三井さんの他、吉村厚(JA6CC)さん、志村達也(JA6HE)さんらが活躍した修猷館(しゅうゆうかん)アマチュア無線クラブは、テレビジョンの研究により当時、文部大臣賞を受けた。三井さんはその後九州大学からNHK本部に入局、放送番組送出の自動化を完成後、IBMに入社し、コンピューターの開発に多大な貢献をされ、エグゼクティブ副社長に就任された。