昭和30年(1955年)、井波さんが脚光を浴びることが起こった。1月2日、当時、久留米市に住んでいた井波さんは、フィリピン・マニラ市のジョージ・フランシスコ(石橋鉚太郎=DU1GF)さんに応答、英語で挨拶を交わした後、ジョージさんは井波さんが久留米市に住んでいることを知ると「母が国道筋にいるストーン・ブリッジ・チヨだ」と日本語で話し掛けてきた。井波さんは名前が「石橋千代」というお母さんを探しているのだと理解し、すぐに市役所で調べて探し出す。

千代さんは、明治末に建築業を手がけていた主人とともにフィリピンに渡り、太平洋戦争勃発にともない日本に帰国した。この時、2人の間に生まれた鉚太郎さんは、マニラのUP(フィリピン大学)経済学部を卒業し、日本軍の通訳として現地に残った。そして終戦。しかし、鉚太郎さんは、日本軍に協力していたため、身を隠すことになる。戦時中に、母親である千代さんから「久留米市の親戚に身を寄せている」という手紙が届いて以来、音信は不通であったが、戦後しばらくは日本とフィリピンとの関係は険悪であり、身を隠している鉚太郎さんの方から日本へ手紙を出せるような状態ではなかった。

昭和24年、生死不明のまま千代さんの所には鉚太郎さん戦死の報が届く。一方、鉚太郎さんはその後、日比関係が改善されたため、マニラ市に戻り時計輸入商を営んでいた。フィリピン人と結婚し、3人の子供もいた。ほどなく、フィリピンに出かけた日本人から、「鉚太郎さんは生きています」という情報が入った。しかし、海外に簡単に出かけられる時代でもなかった上に、千代さんは80才近くになっていた。

井波さんと鉚太郎さんとの交信が再びできたのは、その年の5月初旬だった。すぐに、千代さんに連絡が取られ、鉚太郎さんの義兄に当たる勝蔵さんは、千代さんを自転車に乗せて駆けつけてきた。2人は15年ぶりに言葉を交わしたが、さらに対面までは5年かかった。昭和35年5月11日、商用で日本にきた鉚太郎さんは、久留米市内で千代さんと19年ぶりに再会。アマチュア無線仲間も、鉚太郎さんを暖かく迎えたが、この美談は「1青年技師の努力」として新聞に大きく紹介された。

石橋千代さんは、井波さん宅に駆けつけ、15年ぶりに会話する

JARL九州支部に話題を移す。昭和27年、戦後のアマチユア無線局の誕生と、JARLからの要請に基づき、九州支部設立の話しが持ち上がった。戦前に活躍された大西茂美さん、木村登さん、開局したばかりの須賀春之助(JA6AF)さん、三井信雄(JA6AU)さん、三浦長栄(JA6AS)さん、そして井波(JA6AV)さんの他、長野正さんが集まった。須賀さんが支部長に就任し、井波さんは総務を命じられたこともあリ、事務所を自分の家にした。当時は独身であり雑用も引き受けることが十分できたからである。

昭和28年4月にはJARLの理事会で九州支部の設立が報告され、承認された。支部長はその後、昭和30年11月に大西丈夫(JA6CW)さん、31年に村上鶴夫(JA6BE)さんに代わった。この時に、井波さんと日高英雄(JA6DJ)さんが副支部長に選出されている。

もうしばらく九州の支部の歴史を眺めていく。支部長は昭和34年に渡辺要(JA6EP)さんとなるが、この年にJARLが社団法人となり、支部長はJARLの理事に就任することになった。翌35年には浦上正二(JA6AX)さんに代わるが、39年に再び渡辺要さん、41年に浦上正二さんが選ばれた。この間、37年には九州支部傘下の各県に連絡事務所が設けられ、さらに47年8月に、JARLは地方本部制、県単位の支部制を取り入れた。急増する会員にふさわしい組織体制とするためであった。

井波さんは37年にJARLの福岡県連絡事務所長となり、49年(1974年)に九州地方本部長に就任、平成3年まで9期18年間務める。JARLの理事職には平成9年(1997年)まで12期24年間就任。また、JARLの副会長に昭和55年(1980年)に就き、平成7年(1995年)まで8期16年間の長期間、JARLの発展に尽くした。

井波さんの現在使用中の通信機。