この間、九州のアマチュア無線局の数は順調に増加し、活動も活発となっていった。この間の変わったことといえば非常無線訓練がある。昭和31年6月1日「電波の日」を記念して東京、千葉、神奈川の上空をビーチクラフト機が飛んだ。5人のハムが乗りこみ地上のハム達と交信した。アマチュア無線では初の試みであった。

次いで6月10日、こんどは毎日新聞社機が九州の上空を飛んだ。移動局JA6BR(運用責任者=細川信雄さん)を載せた同機は約2時間半にわたり、九州一円を飛行した。地上から初交信したのは渡辺要さんであった。当時の九州のハム約400名の内、交信したのが何局かはデータが見つからなかった。

井波さんのJARLでの活躍はとくに海外関係で特筆すべきものが多い。その最初は沖縄問題であった。沖縄には戦前、アマチュア無線局はなかった。戦前の沖縄県は戦後、日本から切り離され、米国の施政権の下に置かれた。極東アジアの不安定な政治が続いていることから、軍事基地として活用するためであった。このため、日本本土では昭和27年にアマチュア無線が再開されても、引き続き沖縄の人達には許可が与えられなかった。米軍関係者はKR6のプリフィックスを使用して盛んに交信しており、現地の大学生や高校生は刺激され、高校や大学にいくつかの無線クラブができあがった。

井波さんと沖縄との接触は早かった。当時、米国が占領している沖縄に行くためにパスポートに似た身分証明書が必要であり、旅行目的を申請しなければ発行されなかった。しかし、井波さんの最初の沖縄入りは身分証明書も持たないお忍びであった。井波さんが米軍板付基地のハムらと親しくしていたことは先に触れたが、ある時その一人から「空軍のハム仲間のミーティングを沖縄でやる。興味があるなら来ないか」と誘われる。即座に返事をした井波さんが搭乗したのは輸送機であり、板付基地から直接、嘉手名基地に着陸、オブザーバーとしてミーティングに出席した。

沖縄のアマチュア無線局第1号石橋さんのこの頃のシャック。JARL発行「アマチュア無線のあゆみ」より

その後、無線電信講習所の同期で、戦時中は同年兵で、戦後は米国の海外放送局である沖縄のVOA(ボイス・オブ・アメリカ)に勤務していた富田成名(後JA1BGK)さんに、沖縄でのアマチュア無線の見通しについてしばしばたずねた。富田さんは「私のボスもKR6で運用しているが、米軍が多くの周波数を使用しており、日本人のアマチュア局の免許は見通しがつかない。私もやりたい。許可を求める運動は日々、盛んになってきている」と連絡してくれた。

その後、電話でアマチュア無線の見通しなどを聞いた。富田さんは「許可を求める運動は盛んであるが、米軍が多くの周波数を使用しており、見通しはつかない」と教えてくれた。一方、沖縄放送に勤めていた石垣長昭(後KR8IV)さんを何度も訪ね、琉球政府工務交通局電務課の電波係長であった眞喜屋松榮(後JR6TEH)さんからも情報を収集した。

本土のアマチュア無線の再開が一段落した後、JARLは沖縄のアマチュア無線許可を支援することになった。沖縄ではアマチュア無線の担当は琉球政府工務交通局電務課であり、本土の郵政省では沖縄郵政管理事務所を沖縄に置いていた。JARLの現会長である原昌三(JA1AN)さんは積極的に遅れている沖縄のアマチュア無線許可に動き出し、郵政省との折衝を何度も行なった。沖縄からは東京に留学していた学生も多かったが、その一人である平安名常功(後JA1BJZ)ら沖縄からの若者達も奔走した。九州では井波さんが解決の道を探っていたが、郵政省の九州電波監理局からは「沖縄は(私たちとしては)やりようがない」とまでいわれていた。

井波さんは、米国コリンズ社の受信機、送信機を揃えた。奥さんと長女との和やかな風景。