昭和60年(1985年)のジュネーブで行なわれたWARC―ORB-85(世界無線無線通信主管庁会議)の第1会期には、日本のアマチュア無線界を代表して原昌三JARL会長が出席。井波さんは、昭和63年(1988年)のWARC-ORB-88第2会期に出席した。この会議は世界の衛星軌道に関する宇宙業務プラン作成が目的であり、政府のメンバーの一員としての参加であった。

ジュネーブWARC-ORB-88に出席した井波さん。(写真右側)

当時は先進各国が、続々と衛星を打ち上げつつあり、宇宙のスペースが埋まる恐れがでてきたための対応策を討議した。また、この年にはソウルでの第7回IARU第3地域総会にも出席、あわただしい年であった。翌平成1年(1989年)には、JARLの代表として中国を訪問した。訪中は中国のアマチュア無線促進を支援するねらいもあったことは先に触れたが、井波さんは「原会長の熱意は相当なものでした。関係する資料があれば中国にどしどし送るなどの援助もした。当時からグローバルな視点で活躍されていた会長の先見性には今さらながら頭が下がります。」という。

さらに平成2年6月にはソ連のクラスノダールで開催された「ARDF世界大会」に、日本選手団20名を引率して参加することになった。この大会には日本は初参加であった。平成3年(1991年)は、バンドンで開かれた第8回IARU第3地域総会に出席した。この総会では発展途上国のアマチュア無線振興のためにワーキンググループを作り、応援することを決めている。平成6年にシンガポールの第9回総会に出席、井波さんのJARLとしての国際活動はここで終わっている。8期16年に及んだ副会長職を平成7年に退いたからである。

「JARLでの活動期間は恵まれた期間であった」と井波さんは述懐している。JARL副会長の16年間はわが国のアマチュア無線の輝かしい発展の時期でもあった。JARL会員も年々増加し、「世界のアマチュア無線王国」となった。また、全国にレピータが設置されアマチュア無線衛星も打ち上げられた。このように、わが国のアマチュア無線が急拡大する時期であっただけに、井波さんの国内外にわたるJARLでの活動は多忙だったといえる。その多忙のなかにありながらも井波さんのハムとしての活動も活発だった。

井波さんは、昭和38年(1963年)、当時、世界のハムのあこがれであった米国・コリンズ社の送信機KWS-1、受信機75A-4を購入した。合わせて2200ドル、為替相場が1ドル360円時代であり、「スポーツカー1台分の値段だった」という。わが国で初めての購入だったとも言われている。

スポーツカー1台分の価格でコリンズの送受信機を買い求めた。

その頃から、気さくな井波さんの自宅には、アマチュア無線志望の若者や、開局したばかりの若者が盛んに出入りした。大変だったのは井波さんの奥さんである和子さんだった。「腹が減っているので何か食べるものありませんか」「ビールありませんか」若者の特権らしく遠慮がなかった。和子さんは放送局勤務、仕事も多忙であった。「私はお手伝いさんみたいにみられている」と、和子さんは不平をいった。それに対して、井波さんは「免許を取れば一人前の仲間として認められるよ」と慰めた。和子さんは奮起して昭和39年(1964年)、免許を取得しJH6AZKとなる。事実、その後は周囲の人達の態度はがらりと変わった。

井波さんは昭和40年4月には、すでにWAZ(ワークド・オール・ゾーン)2-WaySSBで313番目の認定を受けている。次いで昭和61年(1986年)9月に交信国100カ国突破を認められ、DXCC(DXセンチュリー・クラブ)への加入を認められ、翌62年1月末のWAZ(ワークド・オールド・ゾーン)開始50周年記念で49番目の認定を受けている。WAZは指定された世界の40地域との交信達成に贈られる賞である。

WAZ開始50周年で49番目の認定を受けた。

その後も交信記録は続き、平成6年(1994年)にはDXCC Honor RollのNO1(1Honor Roll)を受け取り、昨年(2001年)9月1日現在の交信国数・地域は333エンティティーに達している。