DXCCは、米国のARRLの発行する賞状の名称であり、DXCCのリストには、現在(2002年1月末現在)335のエンティティ(ラテン語で実在・物の意味、ここでは自主独立体を意味する)があり、交信手段としてはMixed、Phone、CW、RTTYなど15種類がある。333のエンティティを達成している井波さんに残されているのは、朝鮮民主主義人民共和国と、デューシー島の2地域のみである。朝鮮民主主義人民共和国の場合は平成7年(1995年)6月14日以降の交信が有効であり、また、デューシー島は2001年11月16日に南太平洋のピトケアン島のセパレートエンティティとなったばかりである。

余談ではあるが、ピトケアン島は1790年に、英国の軍艦「バウンティー号」で反乱を起こした船乗り達が上陸した無人島として知られている。現在は、その子孫が住んでおり、通信手段としてアマチュア無線も活発に利用されているものの、海外にいる血縁関係者との交信が主であり一般のハムとは交信することがほとんどないのが実情。この島に、平成5年(1993年)2人の日本人ハムが運用のため上陸した。現在はJARL本部勤務の玉眞博義(JA1SLS)さん、もう一人は市野光信(JF2MBF)さんである。玉眞さんは,昨年11月のデューシー島セパレートエンティティの折にも、デューシー島上陸を目指したが、台風に妨げられて断念したいきさつがある。

その後、ピトケアン島には平成9年、井波さんと親しい古賀明蘭(JA6CT)さんが出かけており、その模様を「軍艦バウンティー号の末裔たち」として出版している。バウンティー号の遭難の話しや、現在の島の生活振りなど、一般の人達にも楽しく読める本としたため、アマチュア無線について書かれているのはわずかなページである。井波さんは、作家の藤本義一さんらとともに、推薦文を寄せており、玉眞さんとの交信についても触れている。

少し複雑になるが、DXCCのHonor Rollについて説明しておくと、Mixed、Phone、CWの部門において、現存する全エンティティ中の未交信エンティティ数が9以下になった者に与えられる。さらに、Honor RollのNO1は、同じく3部門で現存する全エンティティと交信した人を意味する。

井波さんはMixedとPhoneの両部門でHonor RollのNO1を、Phone部門でHonor Rollを完成させている。また、現在ではDeleted(現在ではなくなった)エンティティを含めると合計交信は361エンティティに達している。このエンティティ数はわが国のトップクラスであり、世界でも380を超える交信の達成は極めてまれである。

この偉業達成について井波さんは「それほど急いでやったわけでもなかった。50年も続けてきた年数の長さの結果ですよ」という。始めの頃の米軍機B29搭載の通信機の活用や、コリンズ製の高級機など設備は申し分なかった。戦後の米軍関係者との交流や、無線事業である放送局勤務も情報収拾や運用面でプラスだつたと振り返っている。その長いハムライフのなかで、井波さんは自作送受信機の時代が終わってもアンテナ作りには熱心だった。

昭和30年(1955年)に米国の雑誌QSTによってキュービカルクワッドアンテナを知り、日本で初めて自作した。その後も「毎年アンテナには手を加えてきた」ほどアンテナの性能を重視した。現在は5エレメントの八木アンテナ。タワーや回転装置は友人の森七郎(JA6CZD)さんの力を借りて作り上げた。ハワイとの初交信の相手である野瀬さんからも、アンテナの情報は良く教えてもらった。

クワッドアンテナの自作に参考となったQST誌。

その野瀬さんは1994年に亡くなった。日系2世であった野瀬さんはハーバート大で修士、高等研究証明を得て、ハワイの高校教師からハワイ大学の教授に就任。1970年には教育用の衛星プロジェクトに参加、太平洋を取り巻く国々と衛星を使用して教育情報を交換する「ピースSAT」を打ち上げることに大いに貢献した。

井波さんが初めて海外と交信した相手である野瀬さん