[福岡県立明善高校]

福岡県久留米市に県立明善高校がある。天明3年(1783年)に久留米藩の藩校として設立された「学問所」が前身であり、寛政8年(1796年)に「明善堂」と改称された。その後、わが国の学制改革などにともない、小学校となったり中学校となったり、さらには師範学校となるなど時代とともに何度も変遷しつづけている。しかし、今年が創立125年を迎えた伝統校であることに変わりない。

久留米市の明善高校 --- 同校のホームページより

時代の変遷や、その時々の技術動向に敏感に反応する風土のせいか、この久留米市は、戦前からアマチュア無線が盛んな土地であり、戦後も国内外で知られる何人かのハムを生んでいる。久留米市のアマチュア無線や明善高校の一端については、先に連載が終了した「EMEでの活躍と森ローテーターの開発」で触れている。

[ARISSスクールコンタクト]

その明善高校で今年7月に「ARISSスクールコンタクト」が行われた。すでにそれまでに全国では6回実施されているが、九州地区では初めての試みであった。この「ARISSスクールコンタクト」について説明しておくと、ARISS(国際宇宙ステーションの中のアマチュア無線局)と、教育目的で行われる小中学生との無線交信のことである。

国際宇宙ステーションには常時、アマチュア無線免許保持者が乗り組んでおり、世界中の小中学生との交信を行うことが許されている。乗組員の交信は宇宙ステーション内での業務の合間を縫って行われるため、それぞれの国の「ARISS運用委員会」がスケジュール調整を行っており、交信が許されるのは貴重な機会となっている。

[米国でアマチュア無線免許取得]

明善高校のケースは、高校生がサポートして小中学生に交信してもらうという試みであった。そのためには無線部の生徒達が上級のアマチュア無線免許を取得する必要があった。しかも、日本のアマチュア無線の国家試験を受験し、局免許をもらっているのでは間に合わないことが予想された。結局、米国のアマチュア無線免許を日本国内で代行受験できる制度を利用して免許を取得した。

今年の7月13日、その日17人の小中学生と高校生は、無事に交信を成功させた。自らはアマチュア無線の勉強をしながら、小中学生に交信のための英語を教える高校生達の手際良く取り組む姿に、江崎さんは感動するとともに半世紀以上も前の自身の高校時代を思い出していた。

[満州から福岡へ]

江崎さんは昭和8年(1933年)満州の旅順で生まれた。当時、父親が旅順の中学校で理科の教師として勤務していたからであったが、太平洋戦争の始まった昭和16年(1941年)父親は現地召集されて、中国の奥地に移ってしまう。翌年、江崎少年は母親とともに福岡に帰国する。この時のことを江崎さんは「いわゆる“引き上げ”ではなく、敗戦前の帰国であったことは幸いだった」と振り返っている。

祖母のいる福岡市内に住むことになった江崎少年は警固(けご)国民学校(小学校)に入学。そこで江崎少年は気の合った一人の同級生と知りあう。その友達が江崎さんを無線通信の世界に結びつけることになる福島榮(後にJA6EN)さんであり、その後2人は電磁石を作ったり、モーターを組みたてたりして、親しく遊ぶことになる。

[電気の神様との出会い]

5年生のころである。ある日、福島少年が「近くに電気の神様のような中学生がいる」といい、「一緒に遊びに行こう」と誘われる。そこで見せてもらったのは古い電話機を利用して作った、現在の「インターホン」であった。福島少年との家とを結んで通話が出来るようになっていた。当時、電話は一般家庭には全く普及していない時代であった。江崎少年は「離れた場所同士で話しが出来ることや、人間の声を電気が伝える不思議さと魅力にますます引きつけられていった」という。

「電気の神様」は岡貫冶(後にJA6FF)さんといい、電話機の原理や仕組みを教えてくれ、次ぎに鉱石ラジオの原理を小学生の2人にもわかりやすく説明してくれた。そして「自分で作ることも出来る」という。江崎さんは「子供でもラジオが作れることを知った時の驚きと感激は生涯消えることのない記憶になった」という。電気のことなら何でも知っている岡さんを、江崎さんはその後「神様」のように尊敬し「自分もそうなりたい」と思うようになる。そして、子供心ながらも「未来への展望をもつようになった」という。

[鉱石ラジオ作り]

「鉱石ラジオが作れる」という思いに駆られてから2人は、岡さんの指導を受けながら鉱石ラジオ作りに取り組む。「当時、中学の教科書に鉱石ラジオの回路図が掲載されていたと思う」と江崎さんはいう。それを参考にしながら部品の調達が始まった。まず鉱石検波器用の方鉛鉱が必要になる。

方鉛鉱が学校の理科室に標本としてあるのを知って、2人で担任の先生に「ひとかけら欲しい」と頼み込むことにした。先生は怪訝な表情で「何に使うのだ」と尋ねられたので「鉱石ラジオを作るためです」と答えると「そうか」と言って米粒ほどのかけらを2人に分けてくれた。

3センチほどの長さに切った小さな竹筒の中に鉱石を入れ、接点用のバネは当時の荷札に付いていた針金で作った。ネジクギを竹筒の両端にねじ込んで電極とにすると同時に検波感度調節の機能を兼ねさせて、検波器が出来あがった。みな岡さんが指導してくれた。

方鉛鉱--- 群馬県立自然史博物館の展示品