次ぎは鉱石ラジオのコイル作りであるが銅線もない。また、岡さんに相談すると「銅線は、表面が絶縁されていれば何でもいい。ベルや電磁石の廃物で使える物がないか」という。江崎さんが思いついたのは、家で使っている「呼び鈴(りん)」だった。

「呼び鈴」に使われている電磁石は馬蹄(ばてい)形で、左右に絹巻きの銅線が巻かれている。江崎少年は「こっそりと片側に巻かれている銅線を取り外し、接続し直したが、それでもベルは鳴るので安心した」と、銅線探しの思い出話をしてくれた。コイルのボビンには反物が巻かれている直径3センチほどのボール紙製の芯を活用した。

ヘッドホンには電話機の受話器を使った。「コイルには銅線を何ターン巻いたか記憶がないが、割とうまく出来て放送を聞けた。もっとも送信アンテナはすぐ近くにあり、今思うとどのように作っても聞けるような環境だったと思う」と笑う。当時はすでに戦争も敗戦間際で、空襲対策として防空壕を掘り敵機がやってくると逃げ込んだ。アンテナだけを壕の外に出し、中で「空襲情報」を聞くことが出来た。「大人達が感心してくれたのがうれしかった」という。

[福岡大空襲] 

江崎さんの小学校時代は、このように鉱石ラジオづくりや、電磁石、モーター作りで終わった。そのころ「戦況が不利になってきていることは子供ながらも理解できた」と江崎さんは小学校時代を語っている。昭和20年(1945年)6月19日夜、福岡に200機を超えるB29が来襲した。後に「福岡大空襲」と呼ばれるこの時を江崎さんは鮮明に覚えている。

B29の編隊は地上からの照明灯に照らされてはっきりと捉えられているものの、迎え撃つ日本軍の戦闘機の姿はなく、地上から打ち出す高射砲の弾道光が夜空にくっきりと見えるが、飛来するB29の高度まで届かない。その情景を見ながら、江崎少年は「日本軍が誇る隼(はやぶさ)や鍾馗(しょうき)などの優れた戦闘機は一体どこへいったのだろう、と不安になった」という。

この空襲では12000戸が焼け、1千数百人の犠牲者がでたといわれているが、江崎さんの家への直撃弾はなく、近隣に落ちた大型の油脂焼夷弾も不発だった。このような戦時下では、子供の科学する心を満たす材料は何一つ売っていなかった。そのため「5寸釘を鉄心にして電磁石を、空き缶を切り開いてモーターのコアを作るなど、身の回りにある物を何でも工夫して利用するのが当たり前であった」と江崎さんは当時を語る。

時には近所の電器屋さんや自転車屋さんに行き、店の廃物の中から工作材料になる物をもらった。「子供でもあり、欲しいものは遠慮することなくもらうことが平気だった」という。集めたもので作った物を福島少年や工作好きの仲間と見せあって自慢したり、失敗を話したりした。「それが勉強になった」と江崎さんは今でも思っている。

米軍のB29

[父親の帰国] 

昭和20年(1945年)8月終戦。翌年、江崎さんは旧制福岡中学(現福岡高校)に入学する。翌昭和21年(1946年)父親が中国から復員するといううれしい出来事があった。父親は大分市内で学校教材店を始めたため、一家は大分市に移る。当時は戦後の学制改革の真っ只中であり、江崎さんは大分中学3年から新制「上野丘高校」1年生となる。この旧制中学、新制高校時代は「工作部」「放送部」に加わった。

男女共学制度に改められたため、部活動には女性も加わり新しい仲間との出会いがあった。その仲間達とはつい最近50年目の同窓会をもったが、それがきっかけとなりその後、毎年「ミニ同窓会」が続けられている。「高校時代の思い出話、当時から今でも続いている趣味の話題など楽しい集まりです」と江崎さんは顔をゆるめる。

[部活動での活躍] 

高校に入学して間もなくして、部活動として校内放送設備の刷新を引き受けたこともあった。すべての教室にスピーカーを取り付け、放送用アンプ作りと調整などを、放課後や休日にも登校してやり遂げたことも、思い出になっている。運動会、文化祭では臨時の放送設備設置、運用に全員が協力した。

当時は、現在では普通に使われている「ワイヤレスマイク」はなかった。部員の誰かが「無線で飛ばせるマイクがあったら便利だよね」という願望に、江崎さんは挑戦を始める。無線関係の雑誌を参考にして周波数変換用7極管の6WC5を使った無線マイクを作る。「文化祭会場の講堂と放送室の間約50mを中継させることが出来、ほっとした」ことを思い出すという。

江崎さんがアンプに使用した6WC5真空管

[真空管集め] 

「放送部」の活動で集った時、何人かで「短波ラジオを作って短波放送を聞こう」と話しがまとまり、真空管を集めることになった。しかし、高校生にとって新品の真空管を買うほどの小遣いはない。江崎さんが思いついたのは小学生時代の電器店回りだった。早速、週末のたびに仲間とラジオ店を回り「真空管ならどんなものでもいいから下さい」と頼み込んだ。

店主は「多分、ボケてしまって駄目だと思うが、こんなので良ければ持っていくかい」と何本か渡してくれた。大分市内を回り尽くすと、遠く別府市まで出かけた。ところが、このように苦労して集めた真空管は使えるものが少なく、まして短波の受信機に必要な真空管はなかなか手に入らなかった。