江崎さんはそのころ、大学受験期に差しかかっていた。しかし、両親は「進学、進路は本人が決めることと考えており、勉強のことはやかましく言われた記憶がない。それをいいことに夜になると勉強する振りをして受信機にかじりつき、SWLレポートを書くことが多かった」という。大学選択については、高校の教師からは「実力以上の高望みは無駄になる」とけん制され、地元に近い北九州市の九州工業大学に進学する。昭和27年(1952年)であった。
[明治専門学校] 

九州工大は、全国でも数少ない工学系の国立単科大学であり、明治42年(1909年)に設立され、昭和26年(1951年)まで続いた「明治専門学校」が前身である。少しばかり「明治専門学校」について触れると、明治20年(1887年)ごろから採炭事業を手掛けた地元の安川敬一郎さんが、福島生まれでわが国理学博士第1号の山川健次郎さんとともに設立した。

明治専門学校本館の建築当時の情景---筑豊石炭鉱業組合月報より

徐々に炭鉱事業を拡大した安川さんは、明治半ば以降に炭鉱事業に乗り出してきた三井、三菱などの北九州外の財閥と競い合い、ついには安川財閥を作り上げた人であり、そのころは「石炭王」と呼ばれていた。一方の山川さんは少年時代、倒幕軍の会津攻めの時、少年で構成された「白虎隊」に入ったものの、除隊させられている。

除隊理由には、まだ年が若すぎたためという説と、会津きっての秀才であり、将来を思って逃したため、の2説がある。後に江戸に出て苦学、米国に留学し、帰国後に若くして東京開成高校の教授補となる。さらに、東京帝大の総長となったが、教授達が自治を求めて起こした「戸水」事件の責任をとり辞任。

安川さんは、山川さんの教育に対する情熱を知り、北九州地区の工業発展の基礎となる教育を山川さんに託して、私立の「明治専門学校」を設立した。最初から4年制であった教育機関は当時、他にはほとんどなかった。同校は大正10年(1921年)に官立となり、さらに、昭和19年(1944年)に3年制の明治工業専門学校に改称されている。現在の九州工業大学となったのは、昭和24年(1949年)である。ちなみに、山川さんが携わったのはわずかな期間であり、再び九州帝大、東京帝大、京都帝大の総長に就いている。

明治専門学校の守衛所。現在も残っている

[ハムに] 

九州工大の話しが長すぎた。再び、江崎さんに戻る。昭和26年(1951年)6月、戦後初のアマチュア無線技士国家試験が行われ、全国で1級47名、2級59名が合格した。大学受験勉強は手を抜いていた江崎さんであるが、それでもこの第1回の試験は準備不足で見送った。翌年11月の試験で第2級に合格、予備免許は昭和28年(1953年)3月だった。

受験の時は、浅野辰真(後にJA6CA)さん、中尾博哲(後にJA6DQ)さんらと一緒であり「開局の時は送信機などの製作は一緒にやろう」と約束していた。当時、日本のアマチュア無線送信機では送信管に807を使用するのが一般的だったが、江崎さんは「高価で手が出ないので、米軍放出管の1625」を使わざるをえなかった。

1625はヒーター電圧以外は807と同じ規格であり、小倉市で電器店を経営する中尾さんが安く手に入ることを教えてくれた。「当時807は約1000円、1625ならば200円から300円だったと記憶している」と江崎さんはいう。

ところが、1625には特殊な7本足ソケットが必要であり、九州では手に入らない。幸い大学の先輩である迫田浩(JA1EA)さんが東京におり、常々「東京で欲しいものがあればいってこい」といってくれていた。迫田さんには「このほか7050KHzと7087.5KHzの水晶発振子の入手でもお世話になった」という。当時、7MHzバンドは、この2つのスポット周波数で、しかも水晶制御でなければ許可にならなかった。

浅野さんは門司鉄道局に勤務しており、すでにプロの通信士であり、技術的な相談に乗ってくれた。受信機は作間澄久(JA1BC)さんが学生時代に無線雑誌「ラジオ技術」に書いた「通信機型受信機の製作」を参考にした、という。「アルバイトで得た小遣いで、部品や部材を集めては作ったため、気ばかりあせった」とこのころを江崎さんは語っている。

[寮での開局に奮闘] 

送受信幾の製作見通しはたったが、開局までに解決しておかなければならない問題が、江崎さんにはあった。大学の寮住まいであり寮内に無線設備を設置した前例はない。江崎さんは学校内を駆け回り、承諾をえなければならなかった。当然かもしれないが、電気・通信工学関連の教授と、助手の人達の理解と支援があり、さらに戦前には実験局が置かれていたこともあり、予想外に早く許可された。

九州工大の前身である「明治専門学校」は戦前は大正6年(1917年)8月6日付けで1.775KHz、180Wの電信局J5BCが許可されている。同15年(1926年)8月23日には電話(音声)の17Wが許可されている。その後、どういうわけかコールサインはJ5BBに変わっている。

昭和15年の「J5エリア」のコールサインリスト--- 通称「宮井ブック」より

戦前の九州の官営局はわずか8局であり、このうち熊本、長崎、那覇の各逓信講習所、熊本逓信講習所寄宿舎が熊本逓信局長名で許可されており、学校関係は九州帝国大学総長、熊本工高、大分県立大分工業校長と、明治専門の4校のみであった。このほか、もちろん熊本県飽託郡にあった日本放送協会もJ5をもっていた。