[あなたの声は良く知っています] 

江崎さんは中尾(JA6DQ)さん、浅野(JA6CA)さん達と休みになると集り、それぞれの送信機、受信機を持ちより、お互いの疑問を話し合いながら数カ月かけて完成させた。当時、北九州市戸畑区には漁業無線の免許手続きのために、九州電波監理局の出張所があり、大学からは歩いていける距離であった。

局免許の申請はこの出張所に提出すれば良かったが、このころはアマチュア無線局であっても、業務局と同等の申請書が必要であった。このため、送・受信機の詳細な配線図や、電源、アンテナなどの設備内容を添付しなければならず、しかも正副2通を用意することになっていた。ワープロやコピー機などが使える時代ではなく、江崎さんは手書きの申請書を持って、間違いがないか聞くために出張所を訪ねた。

係官は「とても親切で申請書の不備な点などを丁寧に教えてくれた」という。教え終わった係官は、にこっと笑って「あなたの声はよく聞いていますよ」という。江崎さんは「何をいわれたのか一瞬わからなかったが、思い当たる節がある」ことに気付いた。仲間達が、それぞれ自作機した送信機は、周波数が範囲内に収まっているか、安定性は大丈夫かなど不安も多かった。そして、何よりも「本当に送信できているのかも知りたかった」ため、お互いの住まいまで持ち込んでアンテナはダミーを使い「控えめにテスト」をした。

戸畑の出張所は電波監視業務も行っており、至近距離であったため「どうやら、そのテストをすっかり聞かれていたらしい」と推察した。幸い、ダミーアンテナのため出力が弱く、交信内容から無線機の調整テストの域を超えていないとの判断で、電波監理局も大目に見ていたらしく「あなたの声はよく聞いています」という一言で問題にしなかった。その後は、ダミーアンテナからの「漏れ電波」を出すことなく、正規の免許を待つことになった。

江崎さんの最初のQSLカード

[複雑な手続き、綿密な検査] 

開局申請、予備免許、試験電波発射、レポート交換、送・受信機調整、落成届、落成検査、本免許という複雑な手続きが当時はあった。したがって、申請から免許に至るまでは3ヶ月程もかかっていた。落成検査は熊本から電波監理局の技官と事務官の2人が来て、数時間もかかった。チェックが綿密だったためである。

申請書と送・受信設備、アンテナなどとの照合、電波を発射しての周波数、電力、高・低調波が規定内かの測定のほか、書類、時計、ログなどが揃っているかのチェックが行われた。検査結果は「無線局検査簿」に記入されるが、江崎さんの場合は指示事項欄に何らの記載もなく終わった。しかし、本免許が発行されたのは昭和28年(1953年)8月半ばであった。


ファーストQSL、セカンドQSLのQSLカード

[初交信] 

この時、江崎さんは夏休みのため大分の自宅におり、寮からJA6BXの電波を出すことが出来たのは9月3日になった。初交信は大阪のJA3BK、続いて愛知県半田市のJA2CXだった。通常、当時の初交信は仲間内で示し合わせて行うことが多かったが、当時のローカル仲間の浅野さんは予備免許、中尾さんはまだ免許申請中で出来なかった。「数100Kmも離れた他のエリアの局が初オンエアに応えてくれたことがうれしかった」と江崎さんは、その初交信の感激を記憶している。

ハム生活のスタートは、環境に必ずしも恵まれたわけではなかった。寮という共同生活の場であり、アンテナも立ち木を利用したロングワイヤー、6名が同室の生活では交信も時には遠慮しなければならないなどの制約があった。また、当時は戦後の復興過程であり電力事情が悪く、昼間の寮は停電していた。

[ラジオ放送よりおもしろい] 

救われたのは江崎さんの部屋が所属した自然科学部の部活室になっており、特別に終日通電されていたため、部活の合間にオンエアできたことである。昼間の停電中には多くの寮生が「鉱石ラジオ」を聞いていて、江崎さんの通信が「BCI」となって「寮生達に筒抜けで聞かれていた。それでも「ラジオ放送を聞いているよりおもしろいという寮生も少なくなかった」という。

また、江崎さんの妨害が「やがてアマチュア無線に興味をもつきっかけをつくった」と、江崎さんはBCI効果を語る。約1年間、江崎さんは7MHzバンドだけで、国内中心の交信を楽しんだ。海外とは「例外的にHL1TA(韓国)KH6IJ(ハワイ)と交信できただけ」という。

[戦後初のYL局の手紙] 

この間の江崎さんの思い出の一つが、戦後の第1号YL局である富平静代(JA1FM)さんと九州では初めて交信したことである。「冬の夜遅く7MHz帯で東京近郊の局と交信する彼女の声は聞こえてくるが、当時のスポット周波数では九州からの電波は近くの局の混信で先方には届かなかった」という。ついに、江崎さんは「九州から呼んでいる」と手紙で知らせた。「その効果はあり、数日後に混信の中から呼び返してくれたのは紛れもなくJA1FMだった。カードと一緒に届いた彼女からの丁寧な手紙は今でも大事にしている」ほどの感激だった。


戦後YL第1号の冨平さんのカードと、WAJA達成の二階堂さんのカード

江崎さんはアワードにそれほど夢中になったわけではないが「一度だけときめいたことがある」という。江崎さんが開局した当時は佐賀県と青森県が「ハム不在県」であった。「佐賀県とは開局すればいつでもできる。しかし、青森県とはコンディションに恵まれなければ交信が難しい」と考えていた。ところが、昭和29年(1954年)1月19日の夕刻に、開局2日目の二階堂亮(JA7AZ)さんとの交信に成功した。

翌々日にはQSLカードが届き、各都道府県の46枚が揃い、JARLにWAJAを申請した。全都道府県との交信に対するアワードであり、当時は沖縄が日本に返還されていなかったため、都道府県数は46であった。アワードはNO20だった。ちなみに、江崎さんの記憶ではNO1は、村松健彦(JA2AC)さんだったという。