[米軍基地勤務] 

IBMでの仕事は多忙であった。当時は米ソを中心とした東西の冷戦下にあって、米軍基地では機材・物資の補給や兵員配置のためにIBMの機器をほとんど24時間稼動させていた。このため、夜間といえども故障は許されず、江崎さんの勤務時間は基地の重要な仕事のスケジュールに合わせざるをえなかった。

職場で江崎さんが接触するのは「GI」と呼ばれていた米兵たちで、彼らの訛りとスラングの多い米語には閉口する毎日だった。ところが、基地内で働く若い女性たちが「英単語を並べながらも。不自由なくコミュニケーションできている」その姿にコンプレックスを感じるととも「学校で習った英語が会話では役に立たないことを思い知らされた」という。

[東京でのハム活動] 

そのような生活の中でもアマチュア無線との関係は薄れなかった。移り住んだ下宿でアマチュア無線を再開しようとしたが、当時は移動局免許の手続きが面倒であったため、江崎さんはJA6BXを閉局する。電波監理局に相談すると「移動のできる送信設備の定義は同一ケースに収められ、持ち運びできること」であった。真空管を使って自作した当時の送信機と電源ではとても無理であった。

しかし、江崎さんは「何かしたくて落ち着かない。多忙とはいえ下宿の一人住まい。電気街の秋葉原も近い。米軍基地勤務のため土日は原則として休日である。送信機は無理だが、この際最高級の受信機に挑戦しようと、ダブルスーパー受信機を作ることにした。あせって作る必要もないので設計構想を練り、小遣いを貯めては部品を集めて、じっくりと組み立てた」という。各バンドのコイルは市販品がないため、当時、品川の日村一義(JA1NT)さんを訪ねて作ってもらった。

[CQ ham radioを手伝う] 

その製作記事がアマチュア無線雑誌「CQ ham radio」に掲載されたが、そのことがきっかけとなり、同誌に入門ハム向けの記事を書くようになる。このころからアマチュア無線への関心が高まるに従って、読者からのさまざまな質問が多く寄せられるようになり、発行元のCQ出版社はその返事や対応に追われていた。このため、江崎さんは「土曜日だけでも手伝って欲しい」といわれた。

当時のCQ出版社は文京区西丸町にあり、土曜日に出かけて日当をもらって編集の仕事を手伝った。エアコンのない狭い2階の部屋は夏にはつらい仕事場だったが「全国から寄せられる質問からはアマチュア無線への関心の深さ、期待の高さを読み取れた。」という。江崎さんらはその一つ一つに答える作業を続けていたが「真剣な質問に答えていると暑さなど全く気にならないほど楽しく、やりがいのあることだった」と、当時を振り返っている。

その当時、ともに机を並べて話し合いながら仕事をした菅田直和(JA1AP)さん、丹羽一夫(JA1AYO)さん、CQ出版社の小澤俊昭社長とは江崎さんは今でも交流を続けている。そのころに江崎さんが今でも覚えている厳しい思い出がある。当時この雑誌はJARLの機関誌であったため、JARL会長の梶井謙一(J3CC、JA1FG)さんも監修を担当していた。

JARL・梶井会長(左から2人目)と懇談

梶井さんは江崎さんが書いた送信機の製作記事に目を通して「入門者向けの記事にもかかわらず、中和回路の原理説明が不十分でわかりにくい」と強い口調でいわれた。「自分ではこんなことはわかっているだろうと思うことでも、初心者には丁寧な説明が必要なことを改めて知らされた」と、江崎さんは反省した。

[住宅公団総裁の許可] 

昭和34年(1959年)江崎さんは結婚して武蔵野市桜堤公団に移転する。奥さんは大分市の高校時代の友人の一人で、江崎さんが大学卒業を前に無線局を寮から自宅に移した時に見学に来た一人だった。蛇足であるが、移り住んだ美しい町名の桜堤町は昭和32年に公団ができた時に町名がつけられ、その後街路樹に桜が植えられ、現在では桜の名所となり、花見客が集るようになったという。

この年に新居での再開局を申請してJA1ESPとなるが、移った公団住宅では屋上はもちろん、ベランダにもアンテナを建ててはならない規則である。管理事務所に相談すると「とりあえずアンテナ工事申請を出したらどうか」といわれ、同じ団地に居る公団職員でハムの免許を持つ人を紹介される。

「お名前を忘れてしまって申し訳ないと思うが、この人のおかげでその後の審査と許可は驚くほど簡単におりた」という。公団にとっては初めてのケースであり、江崎さんは東京・九段下にある住宅公団事務所に半日出向き「アマチュア無線とは何か」についての説明と、BCI、TVIの対応は責任をもつことを約束した。

1週間ほど後に日本住宅公団総裁の決裁がおり、許可通知とその条件が知らされてきた。すぐにベランダに50MHz用のアンテナを立て、入居している棟の60世帯を訪ねて、テレビやラジオに妨害を与えていないか、あればいつでも連絡してくれるように依頼した。公団住宅における「アパマンハム」の第1号になったわけで、現在、公団でアマチュア無線の運用ができるのは江崎さんのおかげといっても良い。

横で、江崎さんのこのような奮闘ぶりを見ていた奥さんにもアマチュア無線の魅力が伝わり、奥さんも免許取得に挑戦する。ほどなくして奥さんはJH1ADVとしてハムの仲間入りをする。

桜堤団地で使用した自作送信機

住宅公団総裁からのアマチュア無線局開局許可書