[初めての渡米] 

翌昭和35年(1960年)江崎さんは米国に旅立つ。IBMはそのころ初めての全トランジスター式大型コンピューターIBM7070の販売を開始した。それにともない社員に対してのトランジスターについての通信教育が始った。当然のことながらテキストはすべて英語であり、答えも英語で送る必要がある。

会話では苦労した江崎さんであるが、卒論のテーマが「トランジスターのスイッチング回路」だった江崎さんだけに「米国式の通信教育は新しい経験として興味をもって取り組めた」という。そのような矢先の突然の米国出張の話しである。目的は7070についての技術研修であるが「どうして選ばれたのかわからない」まま、他の2人と出かけることになった。

出発を2カ月後に控えて、江崎さんは「にわか特訓でも英会話練習を」と思ったが「団地内の家庭教師に毎日1時間教えてもらってもせいぜい60時間しかない。米国に行けばわずか数日で経験する時間ではないか」と、土壇場での付け焼刃をやめている。当時はニューヨークまではアラスカ経由で30時間もかかった。飛行機はプロペラ機DC7が主に就航し、ジェット機がようやく飛び始めたころであった。

[乗って来た飛行機は燃えたよ] 

帰国の時の余談となるが、米国からのプロペラ機は途中アリューシャン列島のシムヤ島に給油のため着陸したが、いつまで待っても江崎さんらに搭乗案内がない。この飛行場は本来軍用目的のため民間職員は居ない。2時間ほど経ったころ、片言の日本語を話す兵隊が来て「あんたたちは命拾いしたよ」という。

「飛行機は着陸した後エンジンが燃えてしまったのでもう飛べない。明日の便が来るまで待つしかない」とあっけらかんという。飛行中にエンジン付近にオイルが漏れていたのが原因だった。季節は11月。江崎さんら搭乗客はブリザードが吹き荒れ、トタン屋根を激しく叩く音で眠れない夜を過ごした。

[コリンズ社での経験] 

米国での話しに戻る。研修地はIBM7070の製造工場があるニューヨーク州のポキープシー。集合研修は約6カ月だったが、その間に同行した鈴木政勝(JA2CO)さんと近くでハムショップを経営するデビット・マーク(W2APF)さんを訪ねたことがある。コリンズ社製の無線機75A4とジョンソン社製の2Kwリニアアンプなど「豪華なシャックを拝見して、日本との差の大きさを改めて知らされた」体験もしている。

ハムショップを経営していたデビット・マークさん

研修が終了すると、7070のユーザー企業での実習経験となった。そのユーザー企業が偶然にも米国中部のアイオア州にあるコリンズ社だった。現在の若いハムには聞きなれない名前であるが、戦後のアマチュア無線機では75A4などの名機を開発して販売していたメーカーであり、日本のハムは「コリンズ」を持つことが夢であった。

当時コリンズ社はアマチュア無線機以外に軍用の通信機、レーダーなどを開発・製造していた。そのため、外国人の立ち入りは制限されていたが、江崎さんにはIBMのエンジニアということで許可が出る。それでも毎日の入室では2重扉の間に一度入って、テレビカメラとマイクを通して警備員が確認の後に次ぎの扉が開かれるというものだった。

工場内の一人歩きは禁じられ、コリンズ社の社員と常に行動を共にすることになっていたおかげでハムを見つけることがすぐにできた。約1カ月の滞在期間中、江崎さんは数人のコリンズ社のハム、ジム・ニュートン(K0DNI)と、夫人のメアリー・ニュートン(K0JUN)メルビン・ポロック(K0CTD)ジャック・ロック(K0CIC)らと親しくなり、シャックを訪問したり、夕食のご馳走にもなることができた。

7070の据付が完了し、起動式にはアート・コリンズ(W0CXX)社長も列席したが、遠くから見るだけに終わった」と、江崎さんは今でも残念に思っている。実習が終わり、帰国する際にコリンズ社のハムの一人が「これを土産にプレゼントする」といってコリンズ社のエンブレムを笑いながら渡してくれ「お前の手作りのリグにこれを付けても良いよ」と付け加えた。

デビットマークさんのQSLカード

[英国そして再び米国] 

米国への出張のついでに多少の時間差はあるが、まとめてその後の江崎さんの海外生活を紹介しておく。昭和39年(1964年)江崎さんは英国に出張する。目的はIC(集積回路)を使った「第3世代」コンピューターIBMシステム/360中型モデルの研修が目的であった。ハンツ州サウサンプトンに約6カ月間滞在したが、その間にチャールス・シレイ(G3PZO)、ゴードン・メイクル(G3NIM)らの局を訪問し、英国流ティータイムを楽しみながら、親しく懇談した。その模様は「英国のハム事情」として「CQham radio」誌に紹介した。当時は英国のアマチュア無線界の情報が少なかったからである。

江崎さんはその後、神奈川県藤沢市に開設された製品開発部門に移り、昭和54年(1979年)に、ニューヨーク州アーモンクにあるIBM本社への2年間の出向を命じられる。全世界にまたがって行われる製品開発・製造の計画と調整をスタッフとして行うのが仕事であった。

コリンズ社で交流のあったハムのQSLカード

[ノビス級取得そしてWAS完成] 

IBM本社への出向中は、米国内の各地を飛びまわることが多く忙しかったが、せっかくの機会であり、なんとか電波を出そうと思い、社内のハムで近くに住むヘンリー・ヴォルカー(W2HV)にボランティア試験官をお願いして、手軽に取れる「ノビス級」のKA2GOKの免許をもらった。

出力3WのヒースキットHW-8を組み立てたものの、アンテナはアパートの規定で外部に張れず、部屋の中に21MHzバンドのダイポールアンテナを張った。それでもコンディションが良ければCWでテキサス州やカリフォルニア州まで、米国内は何とかカバーできた。ところが、距離の近い中部の州で局数の少ない地域は聞こえていてもQSOできない。

江崎さんは「悔しさから、現地で日本製の100W機を入手し、約1年半で目標とした米国全州との交信を達成し、WASを完成させた」思い出をもつ。この滞米期間中にはまた、在住の日本人ハムである荒川泰蔵(N2ATT、JA3AER)さん、塚本葵(N2JA)さんらと知り合うことができた。2人はともに、日本人ハムで海外運用を目的とするJANETを創設したメンバーだった。

コリンズ社からプレゼントされたエンブレム