[QSLカードの威力] 

江崎さんは、現在では記憶媒体の主力ともいえる「光ディスク」の開発チームに加わることになった。開発は日本側が神奈川県藤沢、米国がアリゾナ州のツーソンの両研究所の共同で進めることが決まった。昭和61年(1986年)、江崎さんは打合せのためツーソンに出かける。ところが、開発の役割分担と開発資金の配分をめぐって対立、終業時間を過ぎてもまとまりがつきそうもない状況となった。

その時、江崎さんは相手のデビット・トゥロスのオフイスの壁にN7ERGのQSLカードが張られているのに気付いた。「私もハムだ」といって、江崎さんが、JA1ESPのカードを渡すと、途端に「OK、分かった。お前のいうとおりにしよう。これで交渉は終わりだ。皆で飲みに行こう」と急に決着。

「同行したスタッフは事情がわからずに、狐につままれたような表情だった」と言う。飲み会にはもう一人の現地ハムであるジェリー・クラーク(K7KZ)も加わり、大いに盛り上がった「交渉締結祝賀会」となった。江崎さんは「ハムであることが、何にもまして信頼できる間柄という象徴的な出来事だった」と、懐かしむ。

[スプートニクショック] 

江崎さんはその後、アマチュア無線衛星通信にのめり込んだが、そのきっかけになったのが昭和32年(1957)年の当時のソ連により打ち上げられた人工衛星スプートニク1号であった。人工衛星は昭和32年(1957年)から1年半のIGY(国際地球観測年)に合わせて、米国が打ち上げることを発表していた。衛星からの電波は108MHzと決まっていた。

JARLは、IGYに協力して人工衛星の軌道追跡の体制を整え、また、個人的にも信号受信に挑戦しようとするハムも多かった。ところが、抜き打ちにソ連が衛星を打ち上げ、しかも発射する信号は20MHzと40MHzに変えていた。JARLはあわてたが、急遽受信機を改造するなどして受信に成功。また、各地でも受信したハムが何人かいた。

この時のことは別の連載である「私のアマチュア無線人生―原昌三JARL会長」に詳しく書れている。江崎さんは、2バンド5球スーパーでも受信に成功した、という話しを聞いて受信に挑戦した。そのころにほぼできあがっていたダブルスーパー受信機に、下宿の軒下に張ったアンテナをつないで聞いた。

スプートニクからの信号を捕らえるべくJARLは総力をあげて取り組んだ。JARL無線室でのマスコミへの説明

[周波数20MHz] 

スプートニクが発射している20MHzの信号は、そのころの標準電波の周波数でもあり、江崎さんは「みつけるのは比較的簡単だった」ことを記憶している。「その周波数を終日聞いていると「雑音交じりで、不安定なビートとなって聞こえてきた信号は予想以上に強かった」と言う。

江崎さんは、スプートニクが20MHzの周波数を使ったことについて「ダイアルの周波数精度が現在ほど高くない当時の受信機を考えると、標準電波にごくわずか外れた周波数を送信周波数として選んだのは、それなりの考えがあってのこと」と分析している。同時に「人工衛星の飛行する原理に興味をもつとともに、将来はアマチュア無線の中継にも利用できるのではと、漠然と思い巡らせた」という。

[アマチュア無線衛星] 

江崎さんが夢見ていた「人工衛星のアマチュア無線への利用」は正夢であった。すでに、米国のハムが計画しており、昭和36年(1961年)に米国が初のアマチュア無線衛星「オスカー1号」を、次いで翌37年(1962年)には「オスカー2号」を打ち上げた。この2つの衛星は電源に水銀電池を使い、ビーコンを発信するだけのものであった。

「オスカー3号」で初めて、太陽電池を採用するとともにレピーターを搭載し、地上との交信を可能とさせた。上り回線144MHz、下り回線145MHzであったが、わずか2週間足らずで運用を停止してしまった。その後、米国は次々と衛星を打ち上げたが、江崎さんは、米国から帰国後も製品開発の仕事に関係して欧米への出張が多く、衛星交信を始めることができなかった。

太陽電池と2次電池の電源システムの寿命が伸び「オスカー6号」は約5年の寿命、昭和49年(1974年)11月に打ち上げられた「オスカー7号」は約4年半の寿命だった。ちなみにこの衛星にはその後信じられないことが起こり、世界中のサテライトハムを驚かすことになる。約30年も経った平成15年(2003年)7月にどういうわけか復活し、現在でも1部のトランスポンダが機能している。

江崎さんが米国で購入した衛星追尾用ロケーター

[米国で衛星交信の勉強] 

この期間、江崎さんはIBM本社に出向中であったが、米国のハム仲間と接触し、衛星に関する情報とQSOのための知識収集に務めている。アマチュア衛星では地上から衛星向けの「アップリング(上り)」周波数と、衛星から地上に向けた「ダウンリンク(下り)」周波数がある。

それらを知っておくことはもちろんのこと、衛星がいつどの方向から現れて、どういう軌跡で上空を通過するかを予測することが、安定した衛星での交信に欠かせないことなどを学んだ。衛星の軌道を予測する道具として、ARRL(米アマチュア無線連盟)からオスカーロケーターという、定規ともいうものが売り出され、江崎さんはすぐに買い求めた。