[衛星の虜] 

結局、江崎さんが衛星交信を始めたのは、米国から戻った後の昭和57年(1982年)になった。初めて利用したアマチュア無線衛星は、昭和53年(1978年)3月に打ち上げられた「オスカー8号」だった。この衛星はわが国のJARLも関係した衛星であった。日本における2mバンドの混雑を考慮して、2mバンドをアップリンク、435MHzバンドをダウンリンクとするJモードトランスポンダ(中継器)とスイッチングレギュレーター(電源装置)を日本のハム達が参加して製作した。

江崎さんが衛星で初交信した江原光保さんのQSLカード

JARLはその搭載される2年前に富士山頂に実験レピーターを設置し、試験を繰り返すなどの努力を重ねたが、このレピーターは立派に働き、昭和58年(1983年)まで運用された。この衛星での江崎さんの最初のQSOは埼玉県狭山市の江原光保(JA1QHQ)さんだった。アップリンクに使ったのは2mオールモードの10W送信機に8エレメント八木アンテナ2段という簡単なものだった。この時から江崎さんはアマチュア無線衛星交信の魅力に取りつかれてしまう。

それについて江崎さんは「衛星の位置、軌道を計算予測し、アンテナを衛星の方向に向けて送信、受信する。その計算通り信号が聞こえてきた時のうれしさは例えようがなかった。送信後、時間差をもって自分の声が戻ってくる。しかもドプラー効果で刻々とその声が変化するのは新鮮な驚きだった」と説明する。

ドプラー効果は学校の教科書にも記載されているが、「動く物体からの音声や電波の周波数は物体の移動とともに変化する」というもの。近づきつつある電車の音は徐々に高音となり、去って行く時には低音へと変化することが例として挙げられることが多い。衛星からの電波は近づく時には周波数が高い方にずれ、去って行く時には低い方にずれる。

[送信した自分の声を聞く] 

衛星の距離が地球からもっとも遠くなる位置は「遠地点」と呼ばれている。昭和58年(1983年)6月に打ち上げられたAO-10や、昭和63年(1988年)6月に打ち上げられたAO-13は、遠地点がそれぞれ約3万6000Km。この場合、送信して返ってくるまでの距離は7万2000Kmとなり、自分の声は約4分の1秒遅れて戻る。「電波、つまり光の速度を自分の声で実感するという初体験は衛星ならではのことだった」と言う。

また、当時はソ連と呼ばれていたロシアが打ち上げたRS衛星では、アップリンクにHF帯の21MHzを使うモードがある。ところが電離層がこのバンドを反射するような状況下では、地上から発射された電波が衛星に到達するのは、反射されずに進んだ分だけとなる。

一方、ダウンリンク周波数が2mバンドの場合には、電離層に影響されずに戻ってくるため、21MHzで発射した自分の声が電離層を通りぬけた結果、どんな声になっているかを聞くことができる。江崎さんは「初めてそれを聞いた時には、てっきり送信機が壊れたと思った。ひどいしわがれ声でほとんど内容は聞き取れない。

江崎さんはCWを試してみた。返ってきた音は「スカ、スカー・・・」と空気が抜けるような音だった。しかし、次ぎの瞬間には、他の局の信号も同様に歪んで聞こえることが分かり、伝播上に原因する歪みであることに気がついた」と安心した体験をもつ。

[当初は面倒な軌道予測] 

軌道予測は楽しみの一つであるとはいえ、当初は面倒な作業だった。打ち上げ後NASAなどから発表される各衛星の最新軌道情報を使って、その日の衛星が北方向に赤道面を通過する初回昇交時刻とその時の経度データをもとに、電卓を使って局からみた衛星の出現時刻と経度など1日分の計算をする。

その後は、手に入れたARRLのオスカーロケーターを利用することで、この計算はかなり楽になったが、それでも1つの衛星の予測計算には20分から30分くらいは必要だった。「それだけに」と江崎さんは言う。「予測通りに衛星からのビーコンやダウンリンク信号が入感した時は一人で悦に入っていた」と、懐かしんでいる。

現在は軌道予測計算のためのパソコンソフトが各種出回り、面倒な計算は不要になった。それどころか、アンテナの方位や仰角を自動制御したり、最近のトランシーバーではパソコンに接続してドプラー偏移(効果)による周波数変化を自動補正することも可能となった。

それでも「パソコンにすべてを任せてしまうよりは、あらかじめ計算した時刻に衛星からの信号が待ちうけて、自分でアンテナを衛星の方向に調整したり、手動でドプラー偏移を追尾するのは大変な楽しみ」と言う。そして「初期の衛星QSOでは苦労もあったが、達成した時の喜びは大きかった。今は便利にはなったが、喜びは減ったように思う」と江崎さんは残念がっている。

オスカー8号は日本のハムが協力した。制作した電源、受信部、送信部(左から)--- JARLアマチュア無線のあゆみ(続)より

[AO-8で90局] 

昭和58年(1983年)5月末ごろAO-8の2次電池が寿命のせいか働かなくなる。それまでに江崎さんの交信局数はJA局のみで90局になった。その年の9月からはアマチュア衛星として初めてDXQSOを可能とした長楕円軌道のAO-10へのアクセスを開始し、約1年間で34局と交信。海外との交信を意識し、DXはドイツ、イタリア、イギリス、フランス、アメリカなどの6カ国だった。しかし、そのころから江崎さんは「仰角ローテーターがないことと、出力が10Wと少ないことによる限界を感じ始めていた」「そこで、一念発起した」という。仰角ローテーターと50Wのリニアアンプを設備し、昭和59年(1984年)の11月から昭和63年(1988年)1月末までの間に、AO-10での交信を累計614局、60国にまで増やすことができた。

AO-10は各国の協力で1983年に打ち上げられた

その間にJAS-1(FO-12、FO-20)などで国内局との交信も続け、さらにその後も新しい衛星を活用しての運用を続けており、今年(2004年)11月中旬までに総計約5100局との交信を達成している。ただし「この間、コールサインがJA1ESPからJA6BXに替わり、また、旧コールサイン復活までの短期間JP6FXGでの運用もあるため、重複もあります」と江崎さんはいう。