[天領の地の森家]

JR鹿児島本線久留米駅の西南に約500m。株式会社森鉄工所がある。同社は明治38年(1905年)、森さんのお父さんである森藤一さんによって設立された。藤一さんは明治12年(1977年)1月6日に、大分県日田郡(現在の日田市)に生まれた。家は筑後川の上流、三隈川沿いの地元では「掛屋」と呼ばれる両替商であり、2男1女の長男だった。

日田郡は、徳川幕府の直轄領「天領」であり、当時は産業、商業の盛んな土地であり、九州の中心であったともいわれ、明治期には一時「日田県」ともなった。江戸末期には教育者・詩人の廣瀬淡窓が国内では最大規模の私塾を開いた土地でもあり、高野長英、大村益次郎らもそこで学んだ。大正時代に日本銀行総裁や大蔵大臣となった井上準之助も日田の生まれだった。

[森鉄工所の設立]

森家は、苗字帯刀を許された家柄であったが、明治38年、26歳の藤一さんは所持していた広大な田畑を担保にして資金を作り、裸一貫で久留米市に出て、当初は京町に鉄工所を設立する。藤一さんは精米機を作り、やがてポンプ、モーター、トランスなどに手を広げていった。その後、冷凍機まで作ったらしい。創業間もない明治40年6月25日の「九州日報」に、森鉄工所の技術力を示すような記事が掲載されている。

内容は電力会社の「日田水電」が、発電機を据え付ける工事中に機械を落下させて破損してしまったため、ガス燈から電燈に切りかえる工事が終わっていた久留米市の電力供給が遅れていた。その機械を修理したのが森鉄工所であり「20日の修理された機械による点灯検査の結果、7月初旬より久留米市の夜景が一変するもようである」と書かれている。

森鉄工所を創業した森藤一さん

[先見の目をもつ藤一さん]

森さんは、父親について「どういういきさつで、久留米に出てきたのか、商品開発の技術力、販売手法などをどこで学んだのか、わからないことがある。ただ、天領であった日田が封建的な土地であり、そこから逃れたかった、とも聞いている」と言う。森さんの兄弟、姉妹は10人。男だけで7人おり、7男の森さんは父親の晩年の子供であった。藤一さんが亡くなった昭和19年の時はわずか11歳。森鉄工所のいきさつを聞く間が無かったのかもしれない。

日本は明治37年(1904年)2月から翌年7月までの日露戦争で、世界が驚くような大勝利を収めた。しかし、全産業の総力をあげてこの戦争に取り組んだため、鉄鋼のほとんどが軍需に使われた。このため、終戦と同時に鉄鋼は軍需用から、好景気に沸く民間需要に回わされるようになった。

推測ではあるが、藤一さんは「戦勝」による国民の高ぶりと、産業経済の活況の中で、機械工業の先行きの明るさに着目して、事業を始めたものと想像される。その意味では藤一さんには先見性があったと思われる。また、その後の森鉄工所での商品開発は、藤一さんの能力の高さと努力の結果であったように思われる。

[森さんの誕生]

大正3年、久留米市の水天宮700年記念の「勧業共進会」が開かれたが、森鉄工所はこの共進会に「森式摩擦精穀機」を出品した。その時のチラシらしきものが残っている。そこには、細かな特徴や精白能力が記載され「実験の結果、本紙記載の事項に少しでも遜色ある時は機械は無料で贈呈する」と製品に自信をもつ事柄が書かれている。

森さんが生まれたのは、森鉄工所が発展を続けていた昭和8年(1933年)である。ちなみにこの年のアマチュア無線関係の動きを調べてみると、JARL(日本アマチュア無線連盟)は規約を変え準員制度を廃止している。準員は、昭和3年(1928年)のJARL規約で定められたもので、アマチュア無線施設を出願していることを条件に認められていた。4月には第2回JARL全国大会が東京・芝の逓信同窓会館で開かれ、45名が参加している。また、この年にはわが国で初めてのYL(女性)局、杉田千代乃(J1DN)さんが開局している。杉田さんは前年に無くなられた杉田倭夫(J1DN)さんの妹で、コールサインが同じなのは、当時の東京逓信局の“粋”な計らいからだった。杉田兄妹のことについては「関東のハム達。庄野さんとその歴史」に詳しく触れている。

森さんは当時、森鉄工所敷地内の家庭で育った。男7人の末っ子であったが、兄弟の多くは“理工系”の才能が豊かであったらしく、長男は早稲田大学の理工学部に、次男は東京・目黒にあった「無線電信講習所」に進学していた。