[軍需工場、そして父の死]

森鉄工所は昭和9年(1934年)に資本金2万5000円の株式会社となり、業容は拡大を続けた。森少年は昭和14年(1939年)地元の篠山尋常小学校に入学。その2年前、昭和12年(1937年)7月、蘆溝橋事件が勃発して、日中戦争が始まった。このため、森さんの周辺からも召集される人も出始め、また、日米関係も暗雲が漂い出していた。しかし、小学校に入ったばかりの森さんには、詳しいことはわからなかった。まだ、平和な時代の小学生生活であった。

昭和16年(1941年)森さんが3年生の12月に、ついに米国との戦争が始まった。この太平洋戦争は昭和20年(1945年)8月までの3年半以上も続くが、この間、森鉄工所も森家も大きく変化する。森鉄工所も軍需品の生産を命じられ、従業員100名近くの軍需工場の一つになり、増産に次ぐ増産を求められた。しかし、資材不足から生産は思うようにはかどらなかった。

森鉄工所の従業員。前列座っている右から2人目が長男俊一(当時の社長)さん、3人目が次男克巳(現社長)さん。右端で立っているの人の上から顔を出しているのが10歳だった七郎さん

藤一さんは、このような物資不足の中で経営を続けていたが、昭和19年2月に死去。66歳であった。その後を引き継いだのは長男の俊一さんであった。一方、無線通信技術に詳しい次男の克巳さんは短波受信機を組立てたりしていたが、ある時「海外からの日本語放送を聞かせてくれた」ことを森さんは記憶している。戦時下の当時は短波を受信することは硬く禁じられていた。

[ラジオ少年に]

納屋の中で兄の克巳さんは、森少年に放送を聞かせ「絶対にしゃべるな」と口止めした。「BBC放送かメルボルンからの放送ではなかったかと思いますが、子供心にも悪いことだと気にしていた」と森さんは当時を振り返っている。戦争末期になると、日本軍も、米軍もお互いに放送や通信に対して、猛烈なジャミングをかけて放送を妨害していたことも森さんは思い出すという。その兄も昭和20年には、軍属を志願してマレーシアに出発していった。

森さんは、その克巳さんの影響を受けて、小学校の時にラジオに興味をもった。10歳のころである。理科の教材用であった黄銅鉱を分けてもらい、鉱石検波器を自作。スパイダーコイルの型紙を作った。銅線はモーター用のものが工場にはたくさんあり「ペンチで切り取って使ってしかられたこともあった」と思い出を語る。

アンテナは、コンデンサーを直列に入れてAC電流をカットした電灯線を使用した。克巳さんから教えられた方法である。森さんの家は当時としては豊かな部類であったが、戦時下の「物不足」の時代のため、真空管も手に入らず、また、ラジオづくりそのものが情報統制のために公然とできない時代でもあった。

昭和20年(1945年)8月11日午後10時、米軍により久留米市への爆撃が始まった。このころには、爆撃は主要都市から地方都市へと広がっており、全国各地が空襲の被害にあっていた。久留米大空襲では市街地の70%が焼け、死者212名、重軽傷者176名をだし、約4500戸が被災した。

鉱石検波器に使われた「黄銅鉱」

[焼けたラジオの部品を拾い集める]

森鉄工所も全焼の被害を受けた。終戦のわずか4日前である。森さんは工場やその周辺にあった焼け爛れたラジオを集めて回った。「少しでも使えるものが無いかどうか、と探した」という。トランスのコアに銅線を巻き直して電源トランスを作った。また、B電源用の高圧電池が高価で買えないため「落下してきたラジオゾンデを拾い、バイブレーターで得られたパルスを整流してみたが、ピーというリップル音が取れず、結局失敗したという。

真空管を手に入れた森さんが最初に作ったラジオが0-V-1であった。「それがいつのころからか良く覚えていない。戦後すぐのころだったように思う」という。戦後、JARLはすぐに再開され、また、ラジオ製作の雑誌も誕生していた。森さんはそれらの雑誌を参考にして、本格的にラジオの自作に励んだ。

[ラジオゾンデの部品活用]

ラジオゾンデは「気象観測無線」ともいうべき物で、上空の風向、温度、湿度などを無線で地上に伝えるもので、通常ヘリウムガスを封入したバルーンに吊り下げて揚げる。大正10年(1921年)にドイツで実験が始められたといわれ、昭和5年(1930年)に当時のソ連邦・モルチャノフが実用化に成功した。

ラジオゾンデの目的は天気予報のためのデータ集めと、同時に軍事のためのデータ収集に活用された。日本では昭和7年(1932年)ころから研究が始まり、昭和16年(1941年)の太平洋戦争開始前に本格的な取り組みが開始された。このため、当初は中央気象台が担当したが、順次陸海軍が乗りだし、戦時中はもっぱら両軍が採り入れた。