九州は航空機の基地が多く、これらの飛行場から飛び立つ戦闘機、爆撃機は発進前に必ず上空や目的地までの上空の気象をできる限り収集した。ラジオゾンデは一定の高度に達すると、気圧が低くなりバルーンは破裂して、風に漂いながら落下するが、このラジオゾンデ本体は、パラシュートで落下するようになっていた。

久留米周辺は、航空基地の多さのためか落下するラジオゾンデの落下が少なくなかったものと思われる。ラジオゾンデをもっぱら研究し、生産した企業の一つが明星電気であり、同社のホームページにラジオゾンデの歴史が掲載されている。ラジオゾンデについて触れすぎた。再び森少年に話題を移す。

ラジオゾンデに使用されていた電池

[民需に転換した森鉄工所]

長男の俊一さんが社長となっていた森鉄工所は、戦後、ゼロからの出発となった。焼け残った工作機械は、自然に冷却したため亀裂や歪みもなく分解給油で復元できた。焼けた工場跡地は、市の区画整理で移転を余儀なくされた。幸いにも1kmほど離れた所に森家の食糧難を助けてくれた畑があった。そこに20坪(66平米)のバラックを建てて工場とし、機械を搬入して生産を開始した。

現在の本社工場の場所である。戦時中100名近くいた社員は10名ほどが集まった。モーターにシャフトを通して回転ベルトを取り付けて動力源として、復興を始めた。進駐軍の影響、米国文化の流入から「日本の食文化が米食からパン食に変わることを予想して、製粉ロール、篩(ふるい)機、洗麦機などを製造、ようやく経営も軌道に乗り始めた。

マレーシアにいた次兄の克巳さんも、無事に帰国してきたが会社をたて直すことに必死であり、好きな無線通信から遠ざかり、アマチュア無線への希望をもつことなく今に至っている。一方、森さんは昭和22年、途中で篠山国民学校に変わった小学校を卒業し、旧制中学に入学する。3年生となった昭和24年に学制が変わり、旧制中学は新制中学となる。翌年、森さんは久留米商業に入学する。

[無線クラブに加わる]

戦時中の小学校時代、まだ、生活の苦しさが続いていた戦後の中学時代に比べると、高校生になったころには、産業も活発化し経済状態も良くなってきていた。校内も明るくなり自由な空気が漂い始めていた。電子工作に興味をもっていた仲間も増え始め、ラジオマニアやオーディオマニアが集まり「無線クラブ」が出来あがった。

「クラブのメンバーは4、5人がラジオマニア、2、3人がオーディオマニアだったように記憶している」と森さんはいう。このころ、国民の娯楽の中心の一つがラジオを聞くことであった。ラジオ受信機はまだ、メーカーによる大量生産が始まっていなかったため、「アマチュア」と呼ばれていたラジオマニアや「ラジオ屋」と呼ばれていた電気店が作り販売していた。

このようなラジオ組立ての人が増えるにともない、ラジオ部品の販売も広がり真空管も手に入りやすくなっていた。また、無線通信用の真空管も米軍の放出品が出始め、当時はブローカーといわれていた人に頼むと集めてくれた。無線通信技術者仲間の多い次兄の克巳さんのところにも情報が集まるため、森さんは何度か入手を依頼してメタルチューブやミニチュア管が入手できた。

余談になるが、この太平洋戦争中、世界的に知られた九州のハム堀口文雄(J5CC)さんを戦地で失っている。堀口さんは鹿児島市の生まれで、旧制高校1年の昭和6年(1921年)に開局、高校時代に電信で、進学した東大医学部時代に電話でそれぞれWAC(6大陸との交信)を取得、大学時代には、休日のたびに鹿児島に戻りリグの前に座り、ついに昭和14年(1939年)3月にWAZ(世界全ゾーンとの交信)を達成。戦前は世界でも3人しかいないという偉大な業績であった。堀口さんについては「九州のハム達。井波さんとその歴史」に詳しく触れている。

戦前、世界に知られた九州のハム堀口文雄さん

[アマチュア無線再開の動き]

このように、戦争は多くのハムを犠牲にした。JARL(日本アマチュア無線連盟)も戦前、組織としては解散することは無かったものの、戦時中の混乱から組織を維持する会員もなくなり、また、重要な資料も戦災により焼失し、実質的に組織は壊滅してしまっていた。にもかかわらず、アマチュア無線再開活動の動きは素早かった。

昭和20年(1945年)8月の敗戦の後、9月には個人的に逓信省にアマチュア無線の再開を依頼した元ハムがあり、11月には元JARL会員の有志が集まり、組織的な再開運動が始まっている。一般的には、産業経済が破滅し、個人的には生きていくのに必死であった終戦直後に、趣味であるアマチュア無線の再開運動が始められたのが、今でも不思議に思う人が多い。

恐らくは、戦前、戦中に心ならずも軍務に従事し、好きなキーが打てず、マイクが握れなかったことの反動か、あるいは、戦後のすさんだ世相の中で、せめて趣味を楽しみ生活を充実させたかったかのいずれではなかったかと想像できる。