森さんが旧制中学、新制高校に通っているころ、JARLや戦前のハムは、アマチュアの再開に必死であったが、そのような熱気は森さんまで伝わってこなかった。関心事は高卒後の進路であったが、森さんはためらうことなく森鉄工所を手伝うことになった。このころ森鉄工所は発展を続けており、少しでも早く弟の入社を望んでいた。

[九州大水害]

森さんの入社は昭和27年(1952年)であったが、翌28年(1993年)6月九州北中部が豪雨に襲われた。豪雨は25日夜から28日まで続いた。停滞していた梅雨前線に南シナ海方面からの気流が吹き込んだのが原因であるが、白川、筑後川、矢部川、遠賀川、大分川、菊池川などが氾濫、阿蘇山系火山灰が泥流となり埋もれた地域も発生した。

この時の被害は、九州全土で死者763名、行方不明236名、重軽傷者1万1161名、全壊・流出家屋1万1373棟、浸水42万7736棟という惨状であった。なかでも熊本県は322名、福岡県は284名の死者を出すなど被害は甚大であった。当然、福岡県南西部の久留米市の被害も大きかった。

昭和28年の九州大水害。筑後川の氾濫で洗われる小森野橋と、倒壊した家屋(国土交通省・九州地方警備局の資料から)

森鉄工所も、この水害の被害を受けて屋根まで水没してしまった。「濁流が押し寄せたのは“あっ”というまであった」と森さんはこの時の様子を語る。家族は工場にあった「鉄舟」に乗って高台に避難した。「鉄舟」は、筑後川に浮かべて船遊びするために作っておいたもので、いくつかのドラム管を鉄板でつなぎ、船外機を取りつけてあった。「その舟が役に立つとは思わなかった」と、森さんは思い出して苦笑する。

工場の水没は7年前に戦災で焼け、ようやく復興を遂げつつあった同社にとって手痛い打撃となった。森さん兄弟は再建に全力をあげることになったが、この水害を契機に社長は長兄から次兄に交代する。本社・工場は元の場所に再建されることになったが、その復旧の多忙さに森さんは、またもや無線から遠のかざるをえなかった。

[非常通信]

森さんら兄弟が水害による工場への被害を防ごうと奮闘し、あるいは濁流から避難している最中に、九州の何人かのハム達もまた、必死になって「非常通信」に取り組んでいた。戦後、再開されたアマチュア無線の免許取得者は、昭和27年末に九州では9名に達していた。「非常通信」は、その後に免許を取ったハムも含めて約20名で行われた。この通信はわが国初の本格的な「非常通信」であり、この模様は「九州のハム達。井波さんとその歴史」に詳細が書かれている。

アマチュア無線が再開されて間もないこの時の「非常通信」は、世間にアマチュア無線の存在を知らせる役割を果たした。警察無線も、新聞社の通信網も完備されていない時代であり、人命救助、ニュース原稿の伝達に、ハム達は不眠不休で活躍した。濁流が家に迫り、徐々に水位が上がってきた家の中で、家族をを非難させた後に危険ととなり合わせでマイクを握っていたハムもいた。

[久留米市での通信]

この「非常通信」では、久留米では岡崎幸雄(JA6AQ)さんも参加した。昭和50年(1975年)にアマチュア無線久留米クラブは、創立20周年の記念号を発行した。岡崎さんは記念号に「この時、わずかに残っていた公社の電報電話もほとんど不通になり、また、久留米には業務用のVHF無線局もなかった」と書き、西日本新聞社への原稿送稿を支援したことに触れている。

久留米クラブの「20周年記念特集号」

さらに「6月29日ごろから各地でOSO(非常通信に使用する符号)を知り、被災地の親戚、知人の安否問い合わせが日本中から殺到。この状態が7月1日まで続きました」と記している。岡崎さんも、この「非常通信」の果たした役割を評価し、アマチュア無線が社会的に認められた、と強調している。

増田誠一(後にJA6VYZ)さんも、この時のことを思い出として書いている。増田さんは、被害状況の調査に向った出先局と本部間の中継のため高良山に中継局を開設、47MHz、1WのFM機で丸1日頑張り、夕方下山した。途中の五穀神社周辺で濁流をしばらく眺めていた。ところが突如ダム決壊による鉄砲水に襲われ、リグを抱えて西鉄駅まで一目散に逃げ、その状況を無線で報告する。

すると、本部から「ばか者、下山途中で遭難したと思い、今捜索班を出すところだ。すぐ帰れ」と怒鳴られる。当時、増田さんはまだ、アマチュア無線の免許を取得していなかったし、47MHzのバンドはアマチュア無線にはなかった。増田さんはかつて自衛官であったことから推定して。当時の「保安隊」での業務だったらしい。

その同じ20号誌上で、村上鶴夫(JA6BE)さんは昭和30年(1955年)当時の久留米市のアマチュア無線について書いている。「西鉄久留米駅裏が一面の草原で、池町川の畔に井波眞(JA6AV)さんのキュ―ビカルアンテナが立っていたころ、梅雨の蒸し暑さの中を井波さんや能登原茂(JA6CS)さんの指導を受けて回った」と。